PHANTOM THIEF GENNA

怪盗ゲンナ

第二部 船出
〜第六章〜

【闇よ私を隠せ】

 夜になって霧が出てきた。
 ウェーリズの首都であり工業の町である、ここ『ノンド』では霧など珍しくもないが、この夜ほど澄んだ霧が出るのは珍しかった。

 ノンドは人が集まる街である。職を求めて、もしくは人が集まる街だからこそ、集まってくる者もある。
 人が集えば、街に活気が満ちていくが、それと同時に人が集まれば集まるほど、その街の闇も濃くなっていくものである。
 この街も例に漏れずそうであった。
 貧民窟やチンピラどもの巣がそこいらに点在し、そして闇に惹かれて、時には求めて、また人が集まる。
 アイシルもまたそうであった。そして、魔術師である彼も。
「イライラするんだ、ゲイム」
 と、アイシルが本当にいらただし気に言った。
 それを隣の椅子に腰を下ろしている部下のゲイムが黙って聞いている。
 二人が今いる場所は、人通りの多いベイクァ大通りを少し外れた路地にある半地下の居酒屋である。明かりは電気ではない、天井からつるされたオイルランプの暗い光。
 レンガ造りの店内は程よい広さで、程よく雑然とし、程よい人の入り方で、客は程よく倦み疲れた顔をしていた。
 居酒屋にタキシード姿の子供がいても一行にお構いなく気にも留めない、ノンドはそういった街だった。
「イライラする」
 と、またアイシルは言った。そして、絞りたてのオレンジジュースが入ったグラスを唇にあてググッとあおる。
 もう五杯目だ。
「おかわり」
 アイシルはささくれだったカウンターの向こうにいる店主にグラスを差し出した。 「もう、オレンジがないんだよ」
 痩せて小柄な店主は、やや面倒そうにそう答えた。
 アイシルは舌打ちをしてグラスを置く。そして、
「じゃあ、りんごジュース」
 やけ酒ならぬやけジュース。  アイシルは何も言わないが、そして彼、ゲイムは何も聞かないが知っている。アイシルが誰のことを考えているのか。
 何故って、いつだってそうだからだ。アイシルの心に現れるのは、姉のゲンナかその仲間のジンなのだ。
 今はどちらのことを考えているのだろう?
 おそらく両方だ。「何故お姉ちゃんは理解してくれないのか」「何故、ジンはバカのくせにお姉ちゃんのそばにいるんだ」……そんなことを、アイシルはいつも考えているのだ。
 ゲイムはそういった時、決まって、ひどく不安を覚えた。
 アイシルが関心を持っているのはその二人だけで、自分は……
 そう、自分はどこに行っても孤独なのだ、と。

 ゲイムが深く物思いに沈んでいると、アイシルが座ったままくるりと体を彼の方へと向け、眠そうな目で命令を下した。
「そうだ、お姉ちゃんたちの動向を探ってくれ」

***

 言うとおりにしよう。
 彼の言うことなら何でもその通りにしよう。
 何故って、俺には他に居場所がないから。
 彼のそば以外にはどこにも。
 そして何より、彼に頼りにされることが嬉しいから。

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【ゲイム】

 魔術師と呼ばれるもの達がひっそりと暮らすその里の名は、『シャルド』と言った。
 誰も寄り付きはしない、険しい山々が連なる『シャルド連峰』の霧深い山間にある里シャルドは、何もなく、厳しい自然、高い峰峯に囲まれているせいで、昼間だってほとんど太陽の光が差し込まない。自慢が出来るのは澄んだ水と空気だけ。
 彼、ゲイルはそこに生まれて育った。
 世間では、「魔術師は、隠里で希少で貴重な血統をどうにか残している」と、されているようだが、この里で、この血を後世に残そうと思っているのは、年老いたものたちだけだ。
 この忌むべき血を呪い、若き魔術師たちは子を成さなかった。そして、力を隠し、里を出る。
 その為シャルドには若い世代の人間がほとんどいなかった。ゲイムはこの里で一番若かった。最後の子と言っても差し支えはなかっただろう。
 彼は、小さな小屋で祖母とたった二人で住んでいた。その祖母は何故、父や母がいないのか何も教えてはくれなかったが、代わりに彼にいろんな魔術を教えた。だが、彼が使えるようになったのはほんの四種類だけ。
 そのうちに、いつしか、祖母は体が自由に動かせなくなっていた。
 そのせいでゲイムは介護に追われることになった。
 ゲイムは時には厳しく時にはやさしく、たった一人で育ててくれた祖母のことが好きだった……好きだったけど……
 いつまでも続く、永遠に続く……息が詰まりそうな、狭苦しい世界の、光の射さない、未来のない毎日。
 彼は、とうとう狂ったような絶叫を上げた、上げて、祖母を絞め殺した。
 それで開放されるはずだったのに、襲ってきたのは、また闇……。後悔と罪悪感と、深い謝罪の念だった。
 ゲイムは、逃げられるはずもないのに、逃げるように、シャルドを出た。
 だが、お金も持っていなかったし、持ってきていたわずかな食料もすぐに尽きてしまった。仕事を探さなきゃいけない。
 だけど、彼は明るい日差しに怯えた。人々の視線にも怯えていた。醜い汚らわしい自分をさらけ出されるような、見透かされるような、そんな気がして。
 そのせいで、ゲイムは明るい場所を避けながら、汚れた衣服を纏って街をさ迷い歩いた。

 そんな時、出会ったのがアイシルだった。

 真っ白い雪がちらちらと、街のガス灯の火はゆらゆらと、凍りついた橋の上、ふらふら歩くゲイムの前に、アイシルが現れた。
「何だ、お前、ふ〜ん。魔術師か」
 魔術師か。アイシルは彼を一目見てそう言った。
 ゲイムはドキリとしたが不思議と恐怖は覚えなかった。
 軽蔑的でもない、侮蔑的でもない、大げさでもない、さも当たり前のものを見たような、むしろ関心がなさそうな声だったからだ。
 アイシルは、ぼんやりとしているゲイムを、ぼんやりとした目で見つめていた。
 そして言った。

「何だ。しょうがないじゃないか、お前は若いんだもん。外へ出たいよな? 行くとこないなら僕と一緒に来るか?」

 一瞬、ゲイムは、自分の中で何かが起きたことを感じ、同時に何が起きたのか分からなかった。
 それは今でもよく分からないでいる。この感情はなんなのだろか?
 分からないが彼はただ、大きな力を持つ何者かに手を差し伸べられた者の様に、涙を流しながら黙ってアイシルに付き従った。

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【ゲンナと黒猫】

 カレーヌミリアの喫茶店は、やはり赤レンガ造りで、小さいが緑豊かな前庭を備えていた。
「それ、ツバキも一口」
 ツバキはジンの皿に載っている揚げポテトを突き刺し口に放り込んだ。
「ほくほくネ〜」
「幸せそうだな」
 ジンとゲンナは同時に同じ感想を漏らした。
 今はお昼時、三人はいつも一緒に食事を取っているわけではないが、今日はどういうわけか偶然、この喫茶店で顔を合わせた。
「ツバキもカレーヌミリアに部屋を借りたのだな」
 ツバキの隣、窓際に腰を下ろしているゲンナが問う。ツバキは笑顔で頷いた。
「うん。カレーヌミリアは、ちょっとお家賃高いけどね、やっぱりツバキ、ウェーリズで、んん西パフュノットで一番この町が好きネ!」
「まあ、気持ちのいい町だもんな」
 テーブルを挟んで、ツバキやゲンナの向かいに座っているジンが窓の外を見つめながら言った。
 束の間の休息。三人の間に、のんびりと、そしてまったりとした時間が流れる。
 ゲンナは足元に何か柔らかい温もりを感じテーブルの下を覗き込んだ。
「猫?」
「ん? どうしたカ、ゲンナさん?」
「いや、テーブルの下に黒猫が」
 ツバキもゲンナと同じようにテーブルの下を覗きこんだ。
「ああ! 本当ネ」
 二人の瞳に映るテーブルの下で丸まって眠る黒猫。
「ホント、長閑な街ネ〜」
 少し呆れた調子でそう言ったツバキが唐突に「あっ!」と声を上げた。
「どうした?」
 ゲンナが聞くと、ツバキはピッと右人差し指を立て言った。
「んん。猫とは関係ないけどね、今ふと思い出したねネ。ツバキを育ててくれたおじいさんが、よくツバキにしてくれた話」
 ツバキは冷たい紅茶を一口飲んでから、言葉を続ける。
「ゲンナさんが探してる、『聖なる王冠』に関係しているかもな話ネ」
「なに?」
 ツバキの口から出た思わぬ言葉にゲンナは鼓動が早まるのを感じた。
 ゲンナが興味を示したことに気がついたのか、ツバキは真剣な表情を作る。
「あのね、ツバキを育ててくれたおじいさんの住んでいる山の庵のそばの、大きな滝の上に、『神の火』っていうのがあるらしいのネ」

 この世には、不思議の力を秘めたる物は数多あるが、それらのほとんどが迷信だ。あの、『妖魔祈祷書』も、そうであった。
 だが、そんな中にもごくわずかではあるが本物がある。その本物の中に『聖なる王冠』があるはずだ。
 『神の火』……。
 いかにもそれらしい名前ではあるが、それは果たして本物であろうか? まずは知らねば何の判断も出来まい。
 ゲンナは表情を引き締める。
「詳しく聞かせてくれるか? ツバキ」
 ツバキが大きく頷いた。
「うん。勿論ネ、あのね、おじいさんが言っていたんだけどネ、それはね、壺に入っていてネ、現在や過去や、森羅万象全ての知恵と知識と記憶が、それをどうにかすると手に入るって」
 もしその話が本当なら、とんでもない代物である。そしてにそれは『聖なる王冠』である可能性も高そうだ。
 だが、
「どうにか、か……。ふふ。直接行って、ツバキのおじいさんに話を伺うほうが早そうだな」
 ゲンナの言葉にツバキの瞳がキラリと輝いた。
「来るカ? 『豊つ国《とよつくに》』に!」
 ツバキの故郷、東の果ての小さな島国、豊つ国。
「そうだな、そうなると船を手配しないとな」
「でも、豊つ国、入港出港の規制厳しい、決まった船じゃないとダメ、人も許可ないと出国も入国も出来ない。そんな国ネ。だからツバキは密航してここまでやって来た」
 少女が一人で密航だなんてきっと怖かったに違いない。そう思い、ゲンナはツバキの頭をやさしくポンポンと叩いた。
「そうか、でもまあ、何とかなるだろう」
 ゲンナはすっと立ち上がる。ツバキも慌てて立ち上がった。
「もう、帰るカ?」
「ああ、ジン支払いよろしくな」
 ゲンナのいつもの冗談。
 だが、ジンは上の空で承諾した。
「うん? ああ」
 ツバキとゲンナは思わず顔を見合す。そして去り際、二人はもう一度ジンを振り返る。
「ジンさん、変。静かというか、穏やかというか、いつものツッコミがないし、いつもの冗談もなかった」
 変。まさにその言葉がピッタリ来る、と、ゲンナは思った。
 いつものジンなら、会話の途中に、「豊つ国には美人は多いのか」「豊つ国はツバキみたいに露出度の高い女性ばかりなのか」などと、やや品のないことを聞いてきたりしているはずなのだが、なぜか今日は終始ぼんやりとしているのだから。
 ゲンナは眉をしかめた。正直言って面白くないのだ。
「ああ、調子が狂うな」
 と、ゲンナはツバキにも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。

 このとき、ジンのことに気を取られていたせいか、店を出る二人の女怪盗の後を、とっとっとっ、と、黒猫が静かについて来ていたことにゲンナは気づいてなかった。

***

 あの後、ツバキに連れまわされていたゲンナは、日が暮れてようやく解放された。
 ガス燈の作るオレンジ色の光が、闇に染められた石畳と赤レンガの街を照らし出し、そこに夜の幻を生む。
 昼間とは違うカレーヌミリアの夜の顔。

 ずっと黒猫に付回されていることに、少し前からゲンナは気づいていた。
 ゲンナは、すっと、路地裏へ身を隠す。慌てて追うように黒猫は走り出し、ゲンナと同じように路地裏へと入った。
 その黒猫の喉元に剣先が突きつけられる。
 ゲンナの剣だ。ゲンナは黒猫に冷たい視線も同時に投げつけている。
「アイシルの命令か?」
 言われて黒猫は少し身を構えた、そして、魔術を解き、静かにその真の姿を現した。
 魔術師ゲイムだ。
 相変わらず顔色の悪い魔術師は、無表情のまま踵を返し、何事もなかったかのようにゲンナの前から去って行った。
 ゲンナは怪訝な顔で、腰の鞘に剣を戻した。
「不気味な男だ」

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【ツバキと男の子】

 ゲンナが黒猫と不思議な接触をした翌日、ツバキも不思議な接触をしていた。

 それはあまりに清々しいそよ風吹く朝。カレーヌミリアの、とある大通りから路地に入ったところにある少し古びた赤レンガのアパートメントの階段を、ツバキは鼻歌混じりに下りてきていた。
「おっなか減った♪ おっなか減ったな〜♪」
 カレーヌミリアでは、朝から飲食系の露店が開く。それは、やはり方々から人が集まる港町ならではの風景であろう。
 その日、ツバキはアパートメントの近くの大通りではなく、より露店の多いチロット大通りへと向かっていた。
「何食べようかな〜」
 東西のパフュノット大陸から集まる変わった食材に、カレーヌミリアの海で獲れる新鮮な魚介類。ここカレーヌミリアでは食べることもまたひとつの楽しみである。
 十分も歩けば目的のチロット大通りにつく。
 そこでさまざまな飲食系の露店を見て回っているとき、ツバキはその名で呼び止められた。
 振り返ると、そこにいたのは小さな男の子。
 ツバキは首をかしげる。見慣れない顔だ。知り合いではいないと思うが。
「なあに? どうしておねえちゃんのお名前知っているかネ?」
 分からないのなら聞いてみるのが早い。だが、男の子は問いには答えず、ゆっくりとツバキに近づき、そしてツバキの瞳を半眼でじっと見つめてきた。
 見つめていたのは、ほんの数秒だった。男の子はすぐに踵を返しカレーヌミリアの喧騒の中に去って行く。
「ん〜? 何かネ?」
 怪訝な顔で少年の背中を見送ったツバキだったが、その後すぐその出来事は記憶の隅に追いやられた。
 そして故郷の山小屋で、ある少年と会話をするまでずっと思い出すことは無かった。

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【渡航】

 赤レンガが敷き詰められたカレーヌミリア港は、朝から街中以上の活気に満ちていた。
 近くの造船所の大きな金属音。荷物を積み降ろしする男たちの低く響く威勢のいい掛け声。海鳥が鳴き、蒸気船も甲高い声を発する。

「ああ! みんなもう揃ってたカ。ツバキ、時間遅れた?」
 そう言いながら、ツバキはゲンナとジンのもとへと慌てた様子で駆け寄って来た。
 ゲンナは微笑みながら頭を振る。
「いや、大丈夫だ。じゃあ早速、あれに乗船するか」
 ゲンナが指を指したのは、緑のペンキが塗られた鉄製の貿易船だった。
 歩き出したゲンナについて歩きながらツバキは船を見上げる。
「おお! すっごく大きい! でも、これ貿易船よね?」
「そう、だが、ちゃんと船長に話はつけてある。もちろんそれなりの謝礼はしてあるがな」
 タラップでゲンナが話しかけられた乗組員はひとつ頷き「ああ、話は聞いているよ」と言って、ゲンナたち三人を船に招きいれた。
 ツバキは乗組員を振り返り呟く。
「地獄の沙汰も金次第ネ」
 ゲンナは甲板の船縁に手を掛けて頷いた。
「そうゆうことだ。『豊つ国』に近付いたら途中で降ろしてもらって、蒸気艇でひと気の無い海岸に上陸しようと思っている」
「なるほど、それなら問題クリアね」
 ツバキは嬉しそうに何度か頷いた。
 青い海が弾く明るい日差しの反射光に、ジンは眩しそうに手をかざす。
「しかし、忙しそうだな」
 港でも、船上でも、男たちは慌ただしくもたくましく働いている。
 ツバキがジンの顔をじっと見上げた。
「ジンさん……今日は普通ネ」
「なんだよ、普通って」
「だって、ねえ、ゲンナさん。この前ジンさん変だったよネ」
「ああ」
 ゲンナが頷くと、ジンは考え事をしているような視線を海へと泳がせた。
「そうか、変だったか……」
 ジンは、何か言いたいことがあるような態度である。
 ゲンナは話しやすい空気を作るために、真剣な表情で訊ねた。
「どうしたのだ? ジン」
 ジンはそれで決心が付いたのか、意を決したようにゲンナをまっすぐ見据えてきた。
 そして言った。
「今回で最後にしたいんだ」
 汽笛が上がる。三人の怪盗を乗せた貿易船はゆっくりと離岸する。
「何をカ? 怪盗業をカ?」
 ツバキは心配と不安を隠すことなく、責めるようにジンを見上げた。
「ああ」
 心苦しいのか、ジンは目を逸らした。
 何故だ? と、ゲンナは聞けなかった。
 それは自分と共にいる必要がなくなったからなのか? それとも、やはり、真実を知り辛い思いをしているからなのか。
 問いかけは出てくるのに声にはならない。
 代わりにツバキがジンに問う。
「どうしてネ」
 ジンは目を逸らしたまま答えた。
「先日、偶然、兵士時代の上官に会ったんだ。懐かしくて話し込んだ。そしたら彼が軍に戻って来いって言ってくれたんだ」
 その言葉を聞き、ゲンナの胸は少し軽くなった。ジンが怪盗行を辞めたい理由が先ほど脳裏をよぎった理由でないのなら、まだいい、寂しいがまだ、笑顔で送り出せるだろう。そう思った。
 だが、ツバキは納得がいっていないようで、噛み付かんばかりの勢いで、ジンの両腕を強く掴んだ。
「だから何! ゲンナさん、ジンさんとツバキいないとダメって言ってたのニ。ダメよ仲間なのニ、仲間は一緒にいないと……」
「ツバキ……」
 心苦しそうに顔をゆがめ、ジンはツバキを見つめた。
 ツバキもジンから目を逸らさないでいる。目を離したら逃げてしまうのではないかとでも思っているかのように、じっと。
 そんなツバキの肩にゲンナは手を置いた。そして出てきた言葉は何故か心とは裏腹のものだった。
「ツバキ。しょうがない、ジンがそう決めたのだ、仲間なら新しいステップを踏もうとしているジンを、ちゃんと送り出してやらなきゃダメだ」
 静かな声で説得をするゲンナの方へ、ツバキは勢いよく振り向いた。
「イヤ! どうしてゲンナさんはそんなに物分りがいいカ? イヤならイヤって言えばいいのに! ツバキはイヤね。だって初めて出来た仲間……。離れ離れになりたくない」
 ゲンナは動揺していた。去りたいというものを引き止めるのはエゴだ、ゲンナはそう思っていた。
 だが、それはエゴでもあるが同時に素直である。
 ゲンナは、自分が何故ツバキのことが好きなのか、この時判った気がした。素直に言えないゲンナの本心を、ツバキが代弁してくれるからだ。
「そんな、二度と会えネェみたいなこと言うなよ」
 ジンのそのセリフに、ツバキは動きを止めた。
「……」
 潮風が吹いている。
 俯き、ホロホロと涙を流しだしたツバキの髪を、ゲンナは優しく撫でる。
 そして、ツバキはゆっくりと頷いた。
「そうよネ、もう会えないわけじゃないよネ? いつでも会えるよネ?」
「ああ、そっちがその気ならな」
 ツバキを安心させるためにか、ジンの口調は穏やかだった。
 ツバキは涙にぬれた顔を上げ、まだ心配気に聞く。
「お仕事一緒じゃなくてモ、ずっと友達?」
 やはり穏やかな口調で、そして今度は微笑を浮かべてジンはツバキの問いに答えた。
「ツバキがそう思ってくれている間は」
「ツバキ、ジンさんのこと、死んでも友達と思ってるヨ」
 必死な声と表情でそう訴えるツバキを見て、ジンは軽く吹き出した。
「ふっ。死んでも友達って、お前、ちっとも俺を異性として意識してないな」
 ツバキは頬を膨らませて地団太を踏んだ。
「ジンさんだって、ツバキのこと女性として見てないネ!」
 今度は声を立てて笑ったジンは、ゲンナの方へ視線を移して言った。
「ゲンナもツバキみたいに寂しがってくれると嬉しいんだがな」
 一瞬、心を見透かされたのかと思い、ゲンナは少し動揺した。おそらく顔にも出ていたであろう。だが、すぐに口の端で笑みを作り、言った。
「子供じゃあるまいし?」
「ツバキ、子供じゃないネ」
 ツバキはまた頬を膨らませた。

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【船内】

 船内の一室で、ツバキがゲンナに古ぼけた地図を手渡してきた。
「ゲンナさん。これ、ツバキがずっと大事に持ってた豊つ国の地図ネ」
 ジンは、船長が女性二人に気を利かせたからなのか、本人が拒んだからなのかは分からないが、二人と同室ではなく乗組員と相室をしている。
 この部屋も、おそらく乗組員用の部屋だろう。狭小な部屋に木製の二段ベッドが二つと、真ん中には木製の小さな丸テーブルがある。
 ゲンナは丸テーブルに地図を広げてみた。豊つ国は縦に長い国のようだ。
「何故そんなに仲間にこだわるのだ?」
「え?」
 ゲンナの唐突な問いかけにツバキは一瞬、動揺したようだった。だがすぐに、少し悲しそうではあるが、笑みを作り、明らかに無理した明るさで言った。
「ツバキね、豊つ国でお友達いなかった。作らなかったんじゃなくて、友達になってもらえなかった。ツバキ、みんなと髪の色、目の色、肌の色違ったから……」
「ちょっと待て、そんなこと、仲間はずれにする理由にならないではないか」
 ツバキはゲンナの言葉に嬉しそうな笑みを返したが、すぐに悲しげに頭を振った。
「西パフュノットじゃ当たり前でも、豊つ国では違うヨ。西パフュノットは大きな、大きな大陸だから、色んな人種がいるから開放的ネ。でも、行ったら分かると思うけど、豊つ国、大陸から孤立した小さな島国なせいか、決まった人種しかいない。だから保守的で閉鎖的で排他的な国ネ」
 国によって、いろんな問題があるものだ。
 世界を又に駆ける怪盗であるゲンナは、そんなこと百も承知していた。
 そう、承知も、理解もしているが、納得がいかない。
 ゲンナは眉をひそめた。
「ツバキはいい子だよ!」

***

 船は西へ西へと進路を取って、東の果てを目指している。
 辺りは夜の帳が落ち、空にはキラキラと金のシャワーを注ぐ月と、海には波にゆらゆら漂う月が、どちらも同じ速度で、船と併走している。

 ゲンナは甲板に出て、潮を孕む夜風に吹かれていた。
 潮風に吹かれながら、ゲンナはツバキとの会話を思い出す。
 他の人種を嫌う排他的な島国、豊つ国。
 では、西パフュノットにはそういった差別はないのだろうか?
 ゲンナの脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。あの魔術師。
 そうだ、西パフュノットにも人種差別はある。きっと、どこにでもある。そしてそれはもっと小さなサークル内でも起こることだ。そうだ、同じ人種でも、他と違う様子の個人は排斥されるではないか。
 そう、アイシルのような、人と違う力を持った子は……
 西パフュノットが見た目の違いに、おおらかなのは、みんな違うからだ。みんな違うということは大きな意味でみんな同じということだからだ。ただ、それだけだ。
 どこも、誰も同じだ。
 アイシルの憤りの一つは、ここにあるのだろう。
 「愚か者だらけの世界」とアイシルは言う。
 だが……

「愛すべき人たちもたくさん住んでいるじゃないか? アイシル……」

 その悲しげな声は、風に流されていった。
 仄かに輝く闇の中、ゲンナは遠い目で、ゆっくりと過ぎて行く世界を見つめ続けていた。

 第二部 第六章終わり

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