PHANTOM THIEF GENNA

怪盗ゲンナ

第一部 女怪盗と少年怪盗
〜第五章〜

【正義】

 ぶっ放した弾丸は、狙い通りタキシード姿のアイシルの右腕をかすった。
 屋根のない、静謐なはずの、だが、今は雑然とした礼拝堂を、チェスター警部補は銃を構えたまま慎重に見回した。
 皆は一斉にこちらに視線を向けたまま、時が止まったかのように固まっている。
 警部補の数メートル先にへたり込み、呆然としている老紳士がいた。彼がおそらくアルツハイネス元公爵だろう。
 そのまた数メートルほど先に、唯一こちらに注意を向けていない者がいる。
 向かい合う二人の怪盗。そう、アイシルとゲンナだ。
 チェスター警部補は、険しい表情のまま銃口を二人に向け一歩踏み出した。靴音が高く、余韻を持って響く。
 警部補はふと気づく。アイシルが震えていることに。
 そして、そのアイシルは、
「くくくくく!」
 笑い出した。
「ねえ、お姉ちゃん! 僕はね、この愚か者だらけの世界を許さない! 悪を是正しないこの世界を壊して、征服して、愚かな人類を再教育してやるんだ!」
 ゲンナは今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「アイシル、お前は間違っている」
「違う! お姉ちゃんは分かっていない! 僕は正義だ! 僕だけが正義だ!」
 警部補からは、その表情を窺い見ることは出来ないがアイシルが憤っているという事実は、そのヒステリックな叫び声から想像できた。
 しかし正義の世界制服とは。
 チェスター警部補は怪訝な顔をした。社会の敵である怪盗が何故正義を名乗れるのか、彼にはまったく理解ができなかったからだ。
 アイシルはそんなチェスター警部補のほうへと向き直り指差し、やはりヒステリックな声で、責め立てるように叫んだ。
「お前じゃない! 決して! 正義は僕なんだ!」
 正義は僕なんだ。それが、合言葉だったかのようにアイシルのすぐ傍に突っ立っていたひょろりとした男がゆらりと揺れた。
 かと思うと突然、礼拝堂に散らばる屋根の破片や長椅子が、すさまじい勢いで暴れだした。
 警部補は、いや、警部補だけではない、アイシルとその部下以外は皆、暴れ狂う無機物たちを避けるように身を屈めた。
 体中を激しく掠めていく物体たち、少しでも動くと総攻撃を食らうであろう。
「くっ……」
 警部補は小さく呻く。それでも瞳だけは確りと怪盗たちの姿を捉えていた。
 どうやら荒れ狂う物体はアイシルとその部下だけを避けているようだ。
 アイシルと部下は突然、高く飛び上がる。それは人間の跳躍力の限界を遥かに超えていた。勿論アレは魔術に違いない。
 壊れた屋根の上にアイシルはふわりと着地した。そして悲しげな瞳で何かを見つめている。
 ゲンナだ。アイシルはゲンナを見ているのだ。
「アイシル!」
 手を伸ばしゲンナは叫んだ。イヤ、叫び声になっていない叫び。それは最愛の人と引き裂かれた者の悲痛が、音となったような叫びであった。
 ずっと外から様子を窺っていた警部補は、ここで行なわれた一部始終を把握していたが、この二人の過去に何があったのかは分からない。分からないがそんなこと彼にはあずかり知らぬことだった。彼が今、考えるべきこととすべきことは怪盗を捕まえることだ。
 警部補は、天から全てを睥睨しているアイシルに向けて銃を構えた。
 暴れる無機物たちの合間を縫って足元を狙う。
 引き金を引く。
 銃がうなり声を上げた。
「ちっ!」
 警部補は本当に悔しそうに顔をゆがめた。弾丸が予測不可能な動きで暴れている屋根の破片に遮られたからだ。
 アイシルは、銃声に驚いた小鳥のように大きなマントをはためかせ、飛び去ってしまった。

***

「くそっ!」
 チェスター警部補は空を見上げたまま怒りをあらわにした。
 今まで暴れ狂っていた物体達はどすどすと無遠慮に落下し、ぐったりとしている。
 無言《しじま》が訪れた。
 チェスター警部補は短く強い息をひとつ吐き、ゲンナの方へ向き直った。
「お前たちは逃がさんぞ」
 警部補は銃口と視線をゲンナに向けた。
 鋭い視線は人を捕縛することを警部補は知っている。そして、向けられた銃口も同様だ。
 だがゲンナはチェスター警部補に注意を払わず、ただ空を眺めているだけだった。
 視界の端。わずかな人影の動きを警部補は逃さなかった。キッと視線を移す。
 ゲンナのいる位置よりもずっと奥、警部補から見て右手側にいたスラリとした青年が、動きを止めた。
 青年はため息をつく。ああ、見つかってしまったか。といった風に。
 だが、すぐに表情を引き締め、まっすぐに警部補の方へと向き直り、ゆっくりと歩き出した。
 警部補は体の向きは変えず、腕を伸ばし青年に銃口を向ける。
「動くな。動くと容赦なく撃つぞ」
 青年はそれでも警部補の顔を見据えたまま、一歩、また一歩と近付いてくる。
 だが、それ以上の妙な動きは見せようとはしない。一体、青年は何をするつもりなのだろうか? 長刀もただ手にしているだけで抜刀する素振りさえしない。
 警部補はゲンナを一瞥した。彼女も青年の行動の意味が飲み込めていないようで、ただ不安げに見守っているだけだった。
 その時、青年がチラリとゲンナの方に視線をやり目配せをした。
 何かある! と、チェスター警部補は感じた。
 怪盗たちは、こういったときの対処方法も確りと練ってあるのだろう。
 そう考えたチェスター警部補は軽く身を引き、ゲンナと青年の二人を交互に注意深く観察する。
 と、青年は素早く長剣の鞘を抜き、その鞘を勢いよく警部補の顔面狙って投げつけた。警部補は険しい表情のまま、右に体をかわし、鞘を避ける。
「何のつもりだ?」
 視線を青年に戻してすぐ、その青年が身を屈めながらこちらに向かって駆けていることに気がつく。
「ちっ!」
 足を剣ではらうつもりなのだろうと考え、警部補はとっさに銃を両手で構え引き金を引こうとした瞬間、あることに気がつき叫ぶ。
「しまった!」
 警部補の数メートル先でへたり込むアルツハイネス元公爵だ。青年は元公爵の首に手を回し、剣を突きつけた。
「ひいっ!」
 今まで呆然としていたアルツハイネス元公爵は顔色をなくし、恐怖に慄く声を上げた。
「くそっ! 何をやっているんだ私は!」
 警部補は自分を激しく責めた。
 青年はアルツハイネス元公爵から注意を逸らすためにゲンナに意味ありげに視線をやったのだ。いまさら気づいても遅すぎる。
 青年は警部補を見上げニヤリと笑んだ。
「ジンさん!」
 礼拝堂の奥で少女が叫んだ。
 ジンと呼ばれた青年はアルツハイネス元公爵に剣を突きつけたまま立ち上がる。
 アルツハイネス元公爵は取り乱して叫ぶ。
「わ、私はまだ死にたくない!」
 ジンは宥めるように、それでいて慎重な様子で言った。
「そうだな。そうだ、まだ死ねないよなぁ。だから刑事さんにお願いしないとな、そこ退けよ、ってな」
 最後の言葉は直接警部補に向けられている。
 警部補は動かず、ジンを探るような目で見つめる。
 ジンの剣が元公爵の喉の皮を軽く傷つけた。
「ひっ!」
 アルツハイネス元公爵が悲鳴を上げた。
 本気だぞ。とでも言っているようにジンは、また不適に笑んだ。
「くそっ! 悪党が!」
 人命が最優先だ。チェスター警部補は忌々しげに顔をゆがめ、しぶしぶと扉の前をあけた。
「そこじゃないここだ」
 ジンはアルツハイネス元公爵と共に半回転して顎で指図する。
「ちっ!」
 チェスター警部補は、やはりしぶしぶとジンの前方へ移動し銃をコートのポケットにしまった。
 ジンは警部補から視線を逸らさずに言う。
「ホラ、ゲンナにツバキさっさと行け!」
「でも!」
 と、言ったのはゲンナではなくツバキと呼ばれた少女。
「いいから行けって……なっ」
 懇願するような、宥めるような、そんな調子でジンは言った。
「でも……」
 ツバキがそう言った時、ゲンナがゆっくりと観音開きのトビラへと進んでいく。
「ツバキ行くぞ」
「でもゲンナさん!」
「ジンが行けと言っているのだ」
 短いセリフだった。
 だが、ツバキは全てを了解したかのように大きく頷き、ゲンナのもとへ駆けていった。
 そのまま一度も振り返らずに、ゲンナは神も人も住めなくなった礼拝堂を後にした。

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【青いパラダイス】

 ゲンナがツバキを連れて、天を失った礼拝堂を出ると、あの老使用人と二人の年老いた女中が震えながら木の陰に立っていた。
「あの、何があったのでしょうか? 旦那様は?」
 老使用人タキモリが、一歩前進して聞く。
「あなた方があの方の無事を祈るのなら、そこでじっとしていた方がよさそうですよ」
 ゲンナはそれだけ言って、まだ何か聞きたそうにしている老使用人に背を向け、ツバキと共に駆け出した。
 枯れ木の森を抜け、涸れた川を駆け抜け、そのまままっすぐ暫く走ると桟橋が見えてくる。だが、ゲンナはそちらには向かわずに川に沿って駆ける。
「どこ行くネ、ゲンナさん?」
 相変わらず空には薄雲のベールがかかっている。
 ゲンナはチラッとツバキに振り返る。
「私の頭にはこの島の詳細な地図がある」
 ゲンナは足場の悪い川さえ苦も無く駆ける。
「しかし私たちがここにいると、よく嗅ぎつけたものだなチェスター警部補は」
 まだ頭部からの流血が止まっていないゲンナだが、休むことなく疾駆しながら語り続ける。
「チェスター警部補は、淡海島上陸の際、それを私たちに悟られぬようにと邸やその周辺まで蒸気艇の音が届かぬ場所に着岸したい、と考えただろう。だが、停泊場所は遠すぎてはいけない。上陸した後の移動に手間取るからな」
 川原から逸れて、枯れ木が生えた堤防を抜ける。
 すると前方に大きな口をあけた巨大な岩石が現れた。
「あそこだ」
 ゲンナはそう言ってまたスピードを速めた。そして暗い岩の穴の前でとうとう歩を止める。
 男並みに、いやそれ以上に体力のあるゲンナに何とかついてきていたツバキは、少し息を乱しながら言った。
「洞窟ネ」
「いや、洞穴だ。奥は湖に繋がっている」
 そう言って、ゲンナは迷わず洞穴へと足を踏み入れる。
「邸に近すぎず、遠すぎず、船を隠せる場所といえばこの島にひとつしかないのだ」
 少し黴臭い、ひんやりと湿った空気が漂う薄暗い洞穴内の地面は、暫く進むと水溜りが増えていき、またその水溜りは大きくなり、ゲンナが言うように、ついに外へと出て湖となっていた。
 ゲンナの表情が少し緩んだ。
「ああ、あった。いい名前だ。青い体のパラダイス」

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【逃走】

 チェスター警部補が一服し終わったとき、怯え続けているアルツハイネス元公爵の首に、剣を突きつけていた怪盗ゲンナの仲間、ジンが呟いた。
「大分遠くまで行けただろうな」
 微風吹く礼拝堂は屋根が破壊されたせいか埃っぽかった。
 チェスター警部補は軽く笑った。
「ふっ、自己犠牲精神は立派だがな。自分はどうするつもりだ? 大人しく捕まるのか? それともその方と心中でもするかい?」
「わ……私は、まだ……」
 青ざめた顔のアルツハイネス元公爵は、恐怖のために荒い呼吸を繰り返した。言葉が続かない。それもそうだろう、今の彼には冗談など通じるはずもない。そんな元公爵にジンは言った。
「そう、まだ死にたくないよな。俺もまだ死ぬつもりはないぜ。いろ〜んな意味でまだ満足いく結果を残せてないからな」
 警部補の冗談にまた冗談で答えるジンには、まだ余裕が感じられた。だが今、青年はフル回転で逃亡方法を考えているに違いない。
 チェスター警部補は待つことにした、アルツハイネス元公爵の体力の限界まで。ジンにとって元公爵がただの荷物になったときが動き出すときだ。
 警部補がそう考えているとき遠くで蒸気艇の音が聞こえた。それに少し遅れて響く声。
「ジーン」
 ゲンナの声だ。
「ちっ! どこから聞こえる?」
 チェスター警部補がそう言ったすぐ後、ジンは笑い出す。
「あははは。さっすがゲンナ! 見捨てないと思っていたぜ」
 そう言って、ジンはアルツハイネス元公爵を少し引きずる形で、後ろ歩きで出口へと向かって行く。
 チェスター警部補は下唇をかみ締めいっそう険しい表情になり、両手で銃を構えてジンの足元に狙いをつけた。
 最悪アルツハイネス元公爵の足に当たっても構わないつもりで引き金を引こうとしたとき、それを気取ったのか、ジンはアルツハイネス元公爵を無遠慮に蹴り飛ばし、疾風《はやて》のごとく外へと駆け出した。
「くそっ! 御老人は丁重に扱え!」
 チェスター警部補は青ざめぐったりとしている元公爵の横をすり抜けて一目散にジンを追う。
 外とも内とも区別もつかぬ礼拝堂を出ると、もうジンの姿は見えない。だがジンは右の方へと向かって外へ飛び出していたので警部補もそちらへ向かって駆ける。
 このまま、まっすぐ行くと緩やかな下りの傾斜になっていて、そのうちに枯れ木の森になる。
 だが前方にはジンの姿は確認できない。いくらあの青年の足が速かろうがこの短時間で森にたどり着けるはずがない。
 つまりジンは礼拝堂の角を曲がったのだ。
 チェスター警部補が礼拝堂の角を曲がると、遠くにジンの背中が見えた。いや、さほど遠くない。
 緩やかな上りの傾斜をジンは駆けている。
 警部補はその背中を追いながら銃をぶっ放す。が、はずれ。ジンは銃声に振り返りもしない。
 しかし自ら駆けながら走り行く獲物を狙うのは容易くないものだ。
 それでも警部補は二発三発と発砲する。
 ズドン!
 ジンはつんのめるように転げた。警部補の銃弾が足に当たったのかもしれない。
 チェスター警部補は油断をせず、また駆けながら銃を構える。
 が、ジンは転げた勢いのままに飛び出した。
 どこに?
 崖の下にだ!
 アルツハイネス邸と礼拝堂の裏手は崖になっていたらしい。警部補は舌打ちをした。
「ちっ!」
 蒸気艇の音が聞こえている。
 崖の淵まで駆けつけると、ゲンナと仲間のツバキとが乗った蒸気艇にジンは立ち、こちらに手を振っていた。その蒸気艇はチェスター警部補が乗ってきた青い船体のパラダイス号だ。
 チェスター警部補は固まったまま動けなくなってしまった。
 遠ざかっていくジンが大声で何か叫んでいる。
「あんたがやった、たった一つのミスは一人で乗り込んできたことだよ、チェスターさん♪」
「くっ!」
 屈辱に臍を噛む。
 軽く眩暈がした。
 頭を左右に振って、警部補は紙タバコを取り出し咥えた。
 蒸気艇の乾いた響きを遠くに聞きながら、彼はこの年にして始めて仲間の大切さを痛感していた。

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【怪盗ゲンナ】

 寂しげな空の色を映す静かな湖面を撫でるように冷たい風か吹いている。

 ゲンナは木製の蒸気艇パラダイス号に腰を据え、ぼんやりとしていた。
 いや自分の腕の中から飛び去ってしまった愛おしい弟のことだけを考えていた。
「ゲンナさん?」
 目の前にしゃがみこんでいるツバキの心配そうな顔に気づき、ゲンナは努めて笑顔を作ったが、それが少しぎこちない笑顔だったらしく、ツバキは悲痛な表情になった。
 そんなツバキの顔を見てゲンナは何かしら熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それはおそらく涙だった。
 こらえるように胸元で拳を強く握り締めたゲンナから涙の代わりに弱音が零れ落ちる。 「また、逃げられてしまった」
 そう、まただ。だが今回はいつもと同じではない、ちゃんとつかまえた。つかまえたのに拒絶されたのだ。
「ゲンナさん……」
 語りかけるように、問うように、窺うように、慰めるように、ツバキはその名を口にした。
 そのせいか、ゲンナの口から、いつもは隠すはずの本音がポロリと漏れた。まるでツバキにすがっているような声で。
「あの子に私の声は届かないようだな……。あの子は、あんなにも世界を……自分を否定した世界を憎んでいる」
「でも! アイシルは間違ってるヨ。世界も人も恨んだらダメよ!」
 ゲンナは「ハッ」としてツバキをまっすぐに見つめた。
 ツバキは、この大陸にやってきた理由を「世界が見たかったのだ」と説明しているが、遠い島国から、こんなところまで女の子がたった一人やってくるなんて、よっぽどの理由があるのに違いなかった。
 彼女は故郷で何かしら辛い目に遭っていたのかもしれない。
 それなのに、いや、それだからこそツバキは言うのだ。
 世界も人も恨んだらダメよ……と。
 そういうことに何故、今まで気がつかなかったのだろう?
 ツバキが明るかったから? いや、ゲンナはどこかでツバキに甘えていたのかもしれない。
 ツバキは胸元で握り締められていたゲンナの拳の上にそっと手を当てる。
「大丈夫、きっと届くネ、ゲンナさんの言葉も思いも。自分が間違ってたって気づくよ。それにホラ、アイシル仲間いた。ゲンナさんにツバキとジンさんいるみたいニ、アイシル仲間いる。それってすっごく大事なことネ」
 仲間。あの魔術師のことをツバキは言っているのだろう。
 仲間には二通りある、と、ゲンナは思う。
 ジンやツバキのように光へ導く仲間と、それとは反対に影へと導く仲間。
 あの青白い顔の魔術師は果たしてどちらなのだろうか? 前者であって欲しいとゲンナは願う。
 そして目の前にいる仲間たちを見た。
 すると、たちまちにゲンナの胸は締め付けられた。今日の出来事が回想されたからだ。
「すまない。今回は怖い思いをさせたな」
 危険な目に遭うことは今までにも何度もあった。怪盗をやるということはそういうことだ。
 だが今回魔術師の部下を持ったアイシルと始めて交えてツバキもジンも今までとは違う恐怖を味わったに違いない。
 魔術というのはあれほどまでに破壊的な力を持つものなのか?
 だからゲンナは決めた。
「だから、もう」
 言いながら目を伏せたゲンナに詰め寄るように、ツバキは言った。
「もう、何ネ? もうツバキ邪魔とか言う?」
 ゲンナは寂しそうな視線を湖面にやった。陰鬱な空の色が映る揺れる湖面はゲンナの心境を表しているようだった。
「そうじゃない、邪魔じゃない。ただ……。そう、ただ、『聖なる王冠』というのは本当は存在の有無さえも怪しい代物なのだ。それを追うのに危険が伴うと分かった以上、お前たちを巻き込むわけには行かない……」
 ツバキは倒れてしまうのではないかと思うほど激しく頭を振った。
「イヤよ! そんなのズルイねゲンナさん! だったら最初からツバキのこと拾わなければよかった!」
「ツバキ……」
 ゲンナの胸に顔を埋めて震えるツバキの肩は折れそうなくらい細かった。
 休まず石炭をくべていたジンは、ここで手を休めた。
「まさかそんなこと言って今回の報酬、有耶無耶にするつもりじゃねぇだろうな?」
「ジン」
 ジンは意味ありげな笑みを浮かべている。
「そうよ、ゲンナさん、そんなのダメよ。ツバキお仕事ないと困るネ。それにあれよ、あんなの全然平気」
 ジンは大げさにひとつ頷いた。
「そうだな魔術師っていっても、たいしたことないぜ。術だって、モノ動かしたり宙に浮いたり水操ったり、ええっと、変化したり……で、結局四種類ぐらいしかなかったよな?」
 ツバキも大げさに頷く。
「うんうん。それに危ないときはジンさん盾にすればいい」
「盾にすればいいって言ったのか? 縦にスればいいって言ったのか?」
「何言ってるネジンさん?」
 あまりに下らないやり取りにゲンナは思わず笑みを漏らした。
「ふっ」
 ジンがそれに気づく。
「おっ、笑った」
 ゲンナはまっすぐに顔を上げた。笑ってはいたが、おそらく少し情けないような笑みだったに違いない。
「ジンはバカだが、私もバカだな」
 そして瞳を閉じて静かに言う。
「何故、素直にお前たちが必要だと言えないのだろうな?」
 ジンやツバキにとってゲンナが必要なように、ゲンナにとっても二人が必要だった。それを今、ゲンナはハッキリと感じた。
 仕事のことだけじゃない。こんなにも彼らの存在に救われている。
「ゲンナさん!」
 ツバキはパッと顔を明るくしゲンナに抱きついた。ゲンナは「よしよし」と、そんなツバキの頭をなでてやる。
「おおい、まぜてくれよ」
 ツバキはそう言ったジンに向かって、あかんべぇをした。
「ふふ。まあ、報酬のことは気にするな、私を誰だと思っている?」
 ゲンナは言いながら、懐から黒く輝く珠を取り出した。
「あー! それ!」
 ツバキは指差し思わず叫ぶ。
 それはあの礼拝堂の女神の瞳。大粒の黒真珠だった。
「わあ、さすがゲンナさん! 悪党ネ」
「なんだそれ、褒めているか?」
 穏やかな湖面を一陣の風が吹く。ツバキは髪を靡かせながら無邪気に言った。
「勿論ネ、さすが怪盗ゲンナ!」

 第一部 終わり

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