PHANTOM THIEF GENNA

怪盗ゲンナ

第一部 女怪盗と少年怪盗
〜第一章〜

【皇女の瞳】

 〜 あさって二十四時のきっかりに『皇女の瞳』を戴きに参上します。 怪盗 ゲンナ 〜

***

 いつもと変わらぬ静寂の中、手入れの行き届いた庭園と森と白亜の礼拝堂を持つ、豪奢な館が、静かな月光に照らされて、仄白く浮かび上がっている。
 だが、もしこの館に感情があるのなら、今宵はどこかそわそわとしていたであろう。

***

「あと五分か……」
 館の一室。茶色い薄手のフロックコートを着た中年紳士が銀製の懐中時計を取り出して、緊張感のある声でそう呟いたのを、同じ部屋にいたスーツ姿の女は、はっきりと聞いていた。
 吹き抜けの天井まで届く大きな採光窓に、天の女神とも言うべき月が微笑を浮かべて顔を覗かせている。
 部屋の真ん中には、わざとらしく設えられたテーブルがある。テーブルの上には自身の大きさと輝きを自慢しているかのようなエメラルドが誇らしげに居座っていて、周りには緊張した面持ちの制服警官達が立ち並んでいた。
 今は厳戒態勢のこの館の内部は、獅子の絵が描かれた大きな水瓶やモチーフもよく分からない極彩色の絵画、奇妙な形のからくり時計などの、この国では見慣れない種種雑多な飾りで彩られていた。
 部屋中に漂う香りはムスクの線香。まったく、貿易で財を成した男の住処にふさわしい。
「警部さん。そんな怖い顔はおよしなさいな。それより一緒に、ホ〜ラどうです?」
 ありきたりのセリフでブランデーを勧めた、この男こそが、ここの立派な館の主。丸々太った顔は彼の年齢を分からなくしていたが、おそらく若くはない。
 主は趣味の悪い紫のガウンに貴金属や大きな宝石をこれ見よがしに身に着け、大げさな装飾のついた椅子にでっぷりとした腰を深々と沈み込ませていた。
 成金を絵に書いたようなその男の顔が赤いのは、香り高いブランデーのせいに違いない。
 警部と呼ばれたコートの男は時計をしまい、代わりに紙タバコを取り出して火は付けずに銜えた。眉間に深く刻まれた縦の皺が、その男の気難しさと職業柄の心労の多さを物語っている。
 男の様子を見て取って、代わりに、館の主の問いかけに答えたのは黒いスーツを着た青年刑事。
「仕事中なので結構です。それと嫌味ですか? 彼、チェスターさんは警部ではなく、警部補と名乗ったんですよ」
「おっと。ははは、これは失礼」
 主は艶やかな大きな額をパチンと小気味よい音を立てて叩いた。悪びれない主はそのまま成金特有の饒舌っぷりを発揮しだす。
「しかし嬉しいものですな、今、話題の二人の盗賊から私の宝が同時に狙われるなんてね。それも世界中の宝をあさるハイエナ、女怪盗ゲンナと少年怪盗アイシルにだ。しかも、ゲンナには腕のいい二人の部下がいて、アイシルには嘘か真か最近、魔術師の部下が付いたそうじゃないか。んふふふふぅ」
 男が言う魔術師とは、奇術を使う者の例えではない。響きからして怪しげなその存在は確かに、この世界に存在している。それは異能の力を秘めた血を持つ一族。人前に姿をさらすことが滅多にない存在。
 人は己と違うもの異様なるものを嫌悪する性質を持つが、人には理解し難い力を持つ魔術師はまさに普通とは異なる者達であった。
 その為、彼らは悲しくも迫害された歴史を持っている。それは古びた文献に記されるほどの遠い昔のことであるが、その確かな事実が彼らを人里から追い出し、今では隠里で希少で貴重な血統をどうにか残しているに留まっているという。
 閑話休題。
 ねっとりとした下品な笑いを漏らした主は、トロリとしたブランデーをぐっと飲み干して話を続けた。
「そのゲンナとアイシルが数日前、ほぼ同時に、この屋敷にあるそれは見事なエメラルド『皇女の瞳』を奪うとの犯行予告を出してきたのですよ。しかも予告日時は同じの零時きっかり。これは自慢できますな」
 しかも、今はもう伝説とさえなりつつある魔術師の姿を見ることが出来ようものならば、たとえエメラルドを盗まれようと、それはそれ以上に価値あることに違いなかった。この館の主のような虚栄心の強い者にとっては自己を顕示することこそが最大の関心ごとなのだから。
「おお! 『皇女の瞳』その昔、戦争で破壊された宮殿の中から出てきた壊れた皇女の像。その瞳に使われていたエメラルド! それこそが『皇女の瞳!』ああ、その皇女の像には、何故か瞳がひとつしかなかっのたが、その彼女のたった一つの瞳は所有者を大いに富ませ続けてきたというのだ!」
 己の言葉に心酔し、また恍惚としていた主はニヤニヤと笑いだし観音開きの大きな扉の前にいたスーツ姿の女に視線を向けた。
 女と主の視線が一瞬だけ合う。目をそらしたのは女の方だった。
 主は、やや声を潜めてその女性の話題を口にした。
「見てください警部さん、あなたより張り切っている人間がいる。彼女は私が盗難保険を掛けている保険会社の社員ですよ。私は、そりゃあね、この見事で魅力的なエメラルドを失うのはごめんですよ、だが保険が入ってくるのですから実質的な損失は無い。だからこそ、こうして最高のショウをたのしもうとする余裕があるんですなぁ。あはははは」
 主の言葉は確りと保険会社の細身の女社員の耳に届いていた。女はジロリと主を睨み付けた。

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【月下の少女】

 月が煌々と輝いている。
 館の周囲にも、当然のように厳重な警備が敷かれていた。
 それは無駄に広い前庭も礼拝堂に通じる道も、森に面した暗いこの裏庭も、同様であった。
 そして、今、その裏庭に、ごく小さな爆音が起こった。そうかと思うと白い煙が辺りを包むように広がっていく。
「何事だ!」
 その異変で、何者かの侵入を察知した裏庭の警備員たちは、煙を吸ったせいなのか、見る間に意識を失い倒れていった。
「すっご〜いネ。ゲンナさんの作った睡眠剤入り煙幕、効果覿面ヨ!」
 と、暗闇に溶ける甘い女の声。その声と共に、沈黙を守る暗い森から人影が現れる。
 女の栗色の柔らかい髪が風にふわりと揺れ、同時にラベンダーの洗髪剤の香りが広がった。
 突然、妙に明るくなった月光に照らされて女の顔が露になる。女は甘えん坊の子猫のような顔をしていた。
「はっ! ぼう、としてたらいけないネ」
 女は片言の『ウェーリズ語』でそう言った。
 寒くないのだろうか? 露出が多く奇抜なファッションのその女は、二階のベランダに縄をかけ確かめるように、一、二度強く引っ張る。
 と、その女の足を、ぐいと引っ張る者がいた。
「ひゃっ!」
 女は驚きの声を上げ、恐る恐ると足元を確かめた。そこには睡眠剤のせいで意識が朦朧としているにもかかわらず己の職務を全うしようと懸命に女の足を掴んでいる一人の警官がいた。
「きゃあ! スケベー!」
 警官の手を振り払おうと女はパニック気味に足をばたつかせた。その動きが運悪く警官を蹴りつける格好となってしまう。
「ぐふっ」
 警官は女の一撃でとうとう意識を失った。
 女は責任感のある警官の顔を覗き込み、手を合わせて本当に申し訳なさそうに謝罪した。
「ああ、ごめんなさ〜いネ。ツバキもお仕事ネ」
 ツバキ、それが女の名前だ。ツバキは、気を取り直してロープを伝い身軽に壁をよじ登っていく。拳大の石が二つ括り付けられた大きな布を引きずって。
「早くしないと使用人に変装したジンさん電気暗くしちゃうヨ」
 独り言を言いながらツバキは、とうとう屋根の上まで上りつめた。
「んしょと」
 女は屋根の上から前庭を見下ろす。
「おお。人いっぱ〜い」
 月明かりの下、多くの警官達が、ひしめいている。ふいに一人の警官が屋根のほうへと視線を向けた。
「わわ!」
 ツバキは慌てて身を引く。下からは何の声も上がらない。どうやら見つかっていないようでツバキは「ふい〜」と、安堵の息を漏らした。
「ああ! そうそう」
 と、ツバキは思い出したように、ぽんと手を打ち、持ってきた布に息を吹き入れ空気を送り込み始めた。
「どんどん大きくなぁれ♪」

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【犯行完了】

 チェスター警部補は、また懐中時計を取り出す。
 十二時まであと五秒。
 三……二……一……

 フッ……。と、明かりが落ちた。
 闇が小さな世界を支配する。
 ザワメキが部屋中に起こった。
「き、来たー!」
 誰かが動転した声で叫ぶ。
「落ち着け! エメラルドから離れるな!」
 と、警部補が叫んだ瞬間。まるで目覚めるように、世界にパッと明かりが戻った。
「ふふふふ。こんなこともあろうかと思ってね。自家発電のスイッチをここに」
 館の主は悠々と腰を落ち着けたまま、腰掛けている椅子の手すりについた赤いスイッチを、誇らしげに撫でた。
「御覧なさいな警部さん。お陰でエメラルドは無事だ。切り替えまでに少々時間がかかりましたが、さすがの大怪盗も、この一瞬ともいえる時間内では手も足も出なかったらしい。あははは!」
 主の高笑いが部屋中に響き渡る。
 そんな中、誰かが「あっ!」と声を上げた。
 それは制服警官の一人だった。声を上げた警官は、目を見開き上方、窓の外を指差し叫ぶ。
「人影です!」
 一斉に窓の外へと視線が集まる。
 警官が言ったとおり、窓の外に、黒い人影が揺れていた。月光に作られた、闇色の影が……
 そのシルエットは、大きなマントをはためかせて、ゆっくりと下降している。
「あのシルエット! アイシルに違いないわ!」
 保険会社の女社員が指差し叫んだ。
「撃てーっ!」
 警部補の掛け声で警官たちは一斉に発砲しだす。ガラス窓が音をたてて割れ、散る。
「くくく。暗闇に乗じて屋根から『皇女の瞳』を盗むつもりだったらしい。だがあえなく失敗。それで尻尾巻いて逃げるところなのだな? あははは」
 愉快だと言わんばかりに主は呵呵大笑《かかたいしょう》。
 その時、アイシルらしいシルエットは突然下降を速めた、いや、落下したらしい。
「よし! 前庭に落ちたな。前庭にも警官たちがいる。A班、B班、待機! 後は前庭へ急げ!」
「はっ!」
 警部補の迅速な指示に警官たちは慌ただしく動き出す。
 一部の警官を残して警部補達が去ったこの部屋に、また静けさが戻った。
 主はニヤニヤと笑いながら勝利の美酒によう。
 何が残念だったかといえば、あの女の行動に気づくものがいなかったことだろう。あの女、そう保険会社のスーツ姿の女。
 女は部屋の隅でこっそりと笑みを漏らし、そっと部屋を後にする。
 そして警官が立つ扉の前を、何食わぬ顔で通り抜け、誰もいない廊下をつかつかと歩いていく。
 途中、女はおもむろにかつらを取り顔の皮膚を剥ぎ取った。いや、特殊な仮面を脱いだのだ。変装用の皮膜そっくりの仮面を。
 女はとうとう正体を現した。
 女は黒く短い髪をしていたが、額の上と耳の横に掛かる髪は、やや長めで、その顔はまるで少年のように美しく、体つきも少年のように細いが、腰から臀部にかける滑らかな曲線でそれが女であると知れる。
 彼女こそが女怪盗ゲンナだ。
 ゲンナは眠らされた警官たちが横たわる、裏庭へと通じる小さな窓から外へと飛び出した。
 ほころびたての花のような、みずみずしさと華やかさを持つ彼女の姿を、月光は称えるように照らし出す。
 ゲンナは懐から『皇女の瞳』を取り出し月の光を吸い込ませた。そしてまた懐にしまう。
 なんとゲンナはあの一瞬の暗闇で、エメラルドを偽者と摩り替えていたのだった。

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【衝突】

 さて、ここまでは完璧だ。
 後は仲間と裏庭で落ち合い、警部補たちに影の正体がただの布切れだったと気づかれた頃にはもう、去った後である。
 そう、計画では、そのはずだったのだが……

「動くなよ。ゲンナ」

 裏庭でチェスター警部補が、こちらに銃口を向けて立っていた。
 思いがけないことにゲンナはぐっと顔を引き締めたが、すぐに元の表情に戻り、警部補を真正面から見つめ返した。
 二人の間をピリピリと緊張の電流が走る。
 雲が出てきた。
 少し身を隠した控えめな月光を浴びて怪盗と刑事は睨み合う。
 まるで互いを探るかのように……
 唐突にゲンナは口の端で軽く笑みを作り、女性にしては低く、だが透明感のある声でこう言った。
「よく似合うじゃないか。『アイシル』」
 言われて警部補は子供っぽい悪戯な笑みを見せた。
「んふふふ。だから大好きだよ、お姉ちゃん」
 警部補から漏れたその声は意外にも甘えの混ざった幼い声だった。
 そして警部補もまた変装を解いた。
 それはゲンナの変装とは違う魔術による変装である。いや変装と言うよりも変化《へんげ》と言ったほうがいい。
 魔法が解けてみると彼はまだ少年であった。
 少年はゲンナと同じ黒い髪で同じ髪型、ややツリ目だが大きな瞳は、いかにも少年らしく、少し丸みを帯びた頬のラインもまた幼さを強調している。
 彼こそが少年怪盗アイシルだ。
 アイシルはゲンナが警察を誤誘導するために作ったシルエットと同じ、真っ黒なマントを纏ったタキシード姿であった。
 実は屋敷の中にいたチェスター警部補も、このアイシルだ。その彼がここにいるということは、アイシルはあの館の中でゲンナの存在に気がついていた、と言うことになる。
 だがゲンナはそのことに特別な感情を持たなかった。
 それどころかゲンナの胸には切なさがこみ上げてきていた。それでも、そういう感情を表にあらわしたのは、ほんの一瞬で、すぐにもとの無表情に戻すのだった。
「アイシル……」
 少年の名をつぶやいたゲンナの声は、どこか熱心で、かすかに震えていた。それは恐怖のための震えではなく悲しみのための震えであった。
 アイシルはゲンナの実の弟であった。ゲンナの大切な大切な、たった一人の弟。
 アイシルの方はゲンナのそういった声の調子に気づいた様子もなかった。
 アイシルが軽く笑みを漏らし口を開きかけたその時、上空から殺気の混じった叫び声が響いた。
「アイシルー!」
 その叫び声と共に天から男が降ってくる。
 男は着地するやいなや抜刀し、アイシルに斬りかかった。アイシルは手にしていたリヴォルバーでそれを受ける。ぶつかった剣と銃の間で火花が散った。
「ちっ! またお前かよ、馬鹿ジン!」
 アイシルは、いらただし気にそう叫んだ。
 ジンと呼ばれた男は押し返され数メートル後退する。赤いジャージ姿のジンの背中で、クリーム色のロングマフラーが揺れる。
 アイシルはジンを睨みつけ、激した様子で抗議した。
「いつもいつも、お前なんて誘ってないのに。僕はお姉ちゃんと遊んでいるんだ! 邪魔するな!」
 涼しげな目鼻立ち、だが意志の強そうな瞳を持ったジンは、その抗議に耳を貸さずにアイシルを睨み返して、また斬りかかった。
 ゲンナは眉をひそめて叫んだ。
「やめろジン! 今は争っている暇などないぞ!」
 暇がないからやめろと、ゲンナは言ったが、本音はただ二人に争ってほしくはないだけであった。
 遠くで警官の声が聞こえてきた。欺かれたことに気がついて騒ぎになっているのだろう。  タイムリミットだ。ゲンナは軽く舌打ちをする。
「ゲンナさーん! 早く乗るネ」
 タイミングよく森の中から天蓋つきの馬車に乗ったツバキが現れた。
「ツバキ」
 と、ゲンナは女の名を柔らかな音で呟いた。そして攻防を繰り返しているジンへと視線を戻す。
「ジン! 早く乗れ!」
「悪いがゲンナ、俺はこいつに自ら背を向けることなんて出来ねぇ! 先に行ってくれ」
 と、振り向きもせず言うジンに、ゲンナは尚も声をかける。
「ここで捕まってしまったら復讐も何も無いだろ! ジン!」
 そう言われて、ジンが躊躇したのは、ほんの一瞬で、再びアイシルに向かい剣を構え、言った。
「捕まる前に殺る!」
 遠くで人影が揺れた。警官たちが裏庭の騒ぎに気づいたようだ。
 そのとき、ジンが一歩踏み込み剣を薙ぐ。それを飛び退き避けたアイシルは、小馬鹿にしているような笑みを見せ、颯爽とツバキが御者の馬車の屋根に飛び乗った。
「いたぞぉー!」
 勇ましい声と共に警官たちが駆けてくる。
 素早い動作でジンの横を駆け抜けたゲンナは、アイシル同様、身軽に馬車の屋根に飛び乗り叫ぶ。
「出せ! ツバキ」
「ほわあああ」
 慌てているのか、ツバキは奇妙な声を出し馬に鞭を入れた。
 唇を噛み、顰め面をしたジンはしぶしぶと、だが俊敏に、走り出した馬車に飛び乗った。

***

 暗闇が張り付く森の中を、勢いに任せて突き進む一台の馬車。
 激しく揺れる屋根の上には、木の枝を避けるように身を屈めた二人の怪盗が向かい合っていた。
「どういうつもりだ。アイシル」
 不安と緊張と少年に対する愛情がゲンナの声に隠しきれずに現れていた。
 にっこりと微笑みながら、やはり甘えた口調でアイシルは言った。
「だってまだ話が終わってないからね」
「話……」
 緊張した面持ちでゲンナが、懐のエメラルドを服の上から強く握り締めたのは、これが『アレ』でないと分かるまでは、決して渡せない。そう思ったからだった。
 アイシルは軽く頷き言った。
「そう今回は、お姉ちゃんの勝ち。と言いたいところだけど……」
 含みを持たせたその言葉にゲンナは軽く身構えた。その仕種を見てアイシルは不適に笑む。
「んふ、残念、そっちは贋物。あの暗闇でお姉ちゃんより一足先に摩り替えたやつだよ。んふふ、魔術師の部下がいるってのはいいね、ホラ本物はこっち」
 そう言ってアイシルが懐から出したのは輝かんばかりのエメラルド。
「それは……!」
 エメラルドを見たゲンナの胸に驚きと不安が同時に襲ってきた。
 アイシルはゆっくりと頭《かぶり》を振りながら、ゲンナとは正反対に軽い調子で話しをする。
「ううん、やっぱり僕の力もまだまだだよ。これはまったくただのエメラルド僕の探している『聖なる王冠』じゃあない」
 その言葉で「ほっ」と息をつき、またもとのポーカーフェイスに戻ったゲンナは、唐突にアイシルから投げ渡された立派なエメラルドを顔の横で受けた。
「それ、お姉ちゃんにあげるよ」
 アイシルが、にこやかにそう言った時、足元から長剣が勢いよく突き出てきた。かと思うと今度は屋根が音をたてて突き破られる。
 やったのは勿論ジンだ。
「うわ〜ん。ジンさんこれ借り物ネ〜」
 ツバキが泣き言を言っている。
 蹴破った穴から身軽に飛び出てきたジンを睨みつけアイシルは、さも憎々しげに舌打ちをした。
「ちっ。いつまで根に持ってんだよバ〜カ!」
「なっ!」
 目を見開き憤怒の形相になったジン、彼にぶつかった枝が、バキィ! と、大きな音を立てて折れた。
 ゲンナは漆黒の闇の中、小刻みに震えるジンの気配をハッキリと感じていた。
 ジンの熱が一気に解き放たれたように感じた次の瞬間、アイシルの喉もとを狙ってジンの剣から一閃が放たれた。
 にやりと笑ったアイシルはジンの攻撃を予測していたかのように、頭上に迫る太い木の枝に手をかけて後方に大車輪し、その枝に飛び乗った。
「うおおおお! アイシルーッ!」
 渾身の一撃をかわされたジンは堪らず叫び、遠ざかっていくアイシルを追おうとした。
 その腕を強く掴んだのはゲンナ。ゲンナは小さな声でジンと目もあわせずにたった一言。
「やめろ」
 と、言った。
「結局お前は!」
 と、さらにカッとした様子のジンが、ゲンナに向かって何か言おうとしたとき、その声を掻き消すような素っ頓狂な叫び声が上がった。
「ふぎゃあああああ!」
 ツバキの声だ。ハッとして、ジンとゲンナが振り向いたときには、既になすすべも無い状態に陥っていた。
「なっ!」
 と、ゲンナが小さく驚きの声を上げた次の瞬間に、三人の盗賊を乗せた馬車は長寿を誇るように堂々と聳え立つ巨木に、天まで届くほどの大きな音を立てて激突していた。

 クラッシュした馬車と共に地面に投げ出されたゲンナは小さく呻く。
「くっ……」
 乾いた音を立てて車輪が空しく回転運動を続けている。
「ああ……生きてる……」
 ジンが感動混じりの情けない声で言った。
「これ、借り物ネ……」
 仰向けに倒れたまま気の抜けた声で見当違いな心配をしているツバキに、ゲンナは左手で額を覆い、ため息混じりに言葉を返す。
「ああ。弁償は釣りが付くぐらいしておこうな」

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【屈辱】

「くそ!」
 と、暗い部屋でチェスター警部補は毒づいた。
 おんな子供に虚仮にされたのが理由であることなど、説明したくもなかった。しかも、それが社会の敵である怪盗という輩であるから、なおさらだ。
「くそ!」
 もう彼の口からは、その言葉しか出てこない。
 厚い雲にさえぎられて月明かりさえも差し込まない部屋。その片隅のマントルピースには小さな火が燻りながらも明々とした光を放っていた。
 椅子の背もたれに体を預け、両足は机の上に置き、咥えタバコで空《くう》を見つめている警部補の瞳からは、鋭い光が放たれている。
 そんな彼は今、今夜のことを思い出していた。実際はもう昨晩になりかけているが、あえて今夜と言おう。
 そう、今夜彼は問題の館にいなかった、いや、行けなかったのだ。それは彼の身に起きた事件のせいだった。その事件というのはこういったものだ。

 その日も、時間通りに出勤したチェスター警部補は『皇女の瞳』を怪盗の手から守るために相棒の若い刑事を隣に、警察馬車で時間通りにあの館に向かっていた。
 事件が起こったのはその道中だった。馬車が突然、暴走しだしたのだ。
 「どうしたのでしょう?」と、相棒の青年刑事が言うのを横に聞きながら、警部補はあることに、気がついた。車輪は激しく回転し、音を立てているのに馬蹄の音が聞こえないのだ。これはなんとも不思議ではないか。
 「はて?」と思い顔を外へ覗かせると、御者が真っ青な顔をして「浮いている、浮いている!」と、叫び声を上げていた。
 チェスター警部補は冷静に馬車を観察してみた。すると荷台の方は地に車輪をつけて走っているのというに、馬がわずかに宙に浮いていたのだ。
 なんとも理解しがたい現象に、警部補は呆気《あっけ》に取られた。呆気にとられているうちに、馬車は人気のない公園の林に突っ込んでいく。
 林の中に入るやいなや、警部補の身に襲い掛かってきたのは、不快な浮遊感だった。
 そう、馬だけでなく、とうとう車体までもが持ち上がったのだ。
 警部補は、そのとき生まれて初めて、林を真下に見た。
 隣に座っている相棒が、うわ言のように「これは夢だと」繰り返している。御者は声にならない悲鳴を上げ、馬は足をばたつかせ嘶いていた。
 ふと目を上げると、目の前に黒い服の少年がいた。ここは空の上だ、警部補は思わず「あっ」と声を上げた。
 浮遊している男は、すうっと近付いてくる。逃げ出そうにも逃げ場はない。後ろにいるはずの相棒が「うわあ!」と、ひとつ声を上げた。
 青年の身に何事か起こったのだ。
 警部補は背後に、もうひとつ人の気配を感じた。
 だが振り返ることなど出来ない。目の前の不気味な少年に背を向けるなど、何をされるか分かったものではない。
 そう思ったのがいけなかったのだろうか。警部補は背後に現われた者に後頭部を強かに打ち据えられて気を失った。
 どれくらい意識がなかったのだろうか? 気がつくと警部補は相棒と一緒に古新聞にくるまれて埃っぽい路地裏に身を横たえていた。
 慌てて起き上がり、ふと、見上げると、天空で月が静かに微笑んでいた。後で知ったのだが、それは守るはずのエメラルドが盗まれた後だった。

 自分や部下を眠らせて成り代わり、館に乗り込んでいたのは、ゲンナだったのだろうか、アイシルだったのだろうか。
 あの馬車には何の種も仕掛けもないはずだ、だから、おそらくあの浮遊は魔術であろう。ならば、最近魔術師の部下を持ったというアイシルに違いない。
 警部補はギリリと歯軋りをする。思い出すだに腹立たしいのだ。だが、その苛立ちは自分に向けられていた。
 チェスター警部補の両足が置かれた、机の上には過去の新聞のファイリングが散らばっていた。それは机上から零れ落ち床の上にも一面に広がっている。
 警部補は唐突に不適な笑みを浮かべた。
「だが待っていろ。次こそは」

 もうすぐ夜明けが来る。

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