IROHA POETRY

イロハ詩

第一章 時空の悪戯


 あいつのせいだ。あいつのせいで、ひどい目に遭った。
 墓を暴くことになったのも、殺されかけたのも、全て、あの、生臭い口づけが発端なんだ……
 でも……

【犬とフリーター】

 都市近郊にある新興住宅地《ニュウータウン》。
 だがニュータウンとは言っても名ばかりの寂れた町である。
 おそらく開発当初こそは多くの住人でにぎわっていたであろうと思われるその町も、住人の高齢化が進み再開発の遅れも要因となり、今となっては古びたニュータウンに移入してくる若い世代の夫婦も無いに等しく、ほとんどの小中学校も廃校となり、まさに閑散としていた。
 そんな、いかにも犯罪の温床となりそうな犯罪者にとっては格好の町の、また少し外れに、朽ちかけた鉄筋二階建ての小さなアパート『浅き夢』は建っていた。
 午前四時。消えかけた月がまだ空に残る頃、『浅き夢』の酸化した階段を陰鬱な顔をして上る若い男が一人いた。
 若者は、一見すると高校生くらいである。そのありきたりの茶髪はサラサラで、今は晩秋の早朝らしく、白いダウンジャケットを着込み下はジーンズ足元はスニーカーで、コンビニのビニール袋をひとつ手にしている。
 階ごとに三部屋しかない『浅き夢』の二階へ続く階段を上ってすぐにある二〇一号室のドアの前に若者は立った。
 白いペンキが剥がれかけたドアには油性の黒いペンで落書きのように、「探偵事務所」と小さな字で書いてある。
 若者は、鍵も出さずに扉を開く。無用心にもその部屋は戸締りがしていないようだ。
「わん!」
 ドアが開いた瞬間に飛び込んできたのは、そんな犬の鳴き声だった。
 この部屋はペット禁止ではないのか、それとも単に内緒で飼っているのか、はたまた、貴重な部屋の借り手を手放したくない大家が知っていて目を瞑っているのか? まあ、そんなことはこの際どうでもいい。
 犬は健気にも、この時間までご主人様を起きて待っていたのだろうか?
 何故かテレビがついていた。
「わんわんわん!」
(お帰りなさい。ご主人様!)
 明らかに雑種のその犬は、実は犬語でそう言っていた。
「うるさいぞ、コタロー」
 若者はダウンジャケットのジッパーを全開にし、ビニール袋から消費期限切れのお弁当を取り出してペットのコタローに与えた。
 ダウンジャケットの下は黒い長袖のTシャツで、皮ひものついたシルバーのアクセサリーを首にしている。若者は大きなため息を吐きながら万年床に倒れこんだ。
「クーーン」
 コタローは心配そうな声で鳴く。
 若者は深夜から明け方までコンビニでバイトをしていた。そして帰宅後は、いつも夕方頃まで布団から出ることは無い。
 若者が体を仰向けにして寝息を立てだした。
 コタローはお弁当を一口食べてから、器用にリモコンのスイッチを押してテレビを消し、主人の顔を覗き込む。
(ああ……。王子様って言うのはきっと、こういう人のことを言うんだ……)
 そんなことをコタローは、うっとりとしながら考える。きれいな顔立ちに、いつもこうして見惚れているのだ。
「クーーン」
 そして、切ない声を漏らす。
(人間になりたい)
 押さえ切れない衝動に駆られ、穏やかな表情で眠る主人にコタローは顔を近づけ本能のままに唇を奪った。
「うぐっ……」
 ご主人様が小さく声を漏らしたとき、コタローは目眩を覚えていた。

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【妖の部屋】

「っ! 何すんだよ! このくそ犬!」
 叫びながら若者は栗毛の雑種犬を思い切りよく蹴り飛ばした。
「キャン! う〜。いっ、痛いですぅ〜ご主人様ぁ〜。何するんですかぁ?」
 蹴られた愛犬は主人に抗議する。だが、主人の方は取り合わず逆に怒りを表す。
「それは、こっちのセリフだよ! くそっ! なまぐせぇ!」
 若者は袖で唇を拭き、すぐ隣にある頭蓋骨につばを吐いた。
 頭蓋骨……
 若者はそこで自分の置かれている状況に気がついた。
「なっ……! ここ、どこだよ? 俺の部屋じゃない!」
 若者は、ぐるりと部屋を見回した。
 そこは、灰色の石造の手狭な部屋だった。
 壁にはアニメや漫画でよく見る魔方陣。床に転がるたくさんの動物の頭蓋骨。丸テーブルや飾り棚の上には燭台とナイフ、それから五十センチはありそうな釘が並べられており、部屋中に洋装の厚い本が散乱している。
 若者は本に埋もれたベッドから這い出る。
「なっ。魔法使いの……部屋?」
「くしゅん。はっ! ごごごごごご主人様ぁ!」
「ちっ! 何だよ」
 若者は眉間にしわをよせ、己を呼ぶコタローを睨みつけるように振り返る。
「見てください! コタロー! 人間になってますよぉ!」
 興奮気味に言うコタローは両手を挙げて自分の姿を誇示する。勿論、布一枚着けていない。
 人間になったコタローの目は、くりくりとしていて、脳みそが働いていなさそうな、脳天気そうな顔をしている。
 若者は、より眉間のしわを深くし冷ややかな眼差しでぼさぼさの髪のコタローを注視したあと、ぽつりと言った。
「お前……メスだったのか」
「ええっ! いっ、今気づいたんですか? って言うか何でそんなそっけない口調?」
 本気でショックを受けている様子のコタローから視線をずらし若者は、はき捨てるように言った。
「犬の性別なんて、興味ねぇし」
「があああん!」
 ベタなリアクションでコタローは、雑然とした床に崩れ落ちる。
「ああ。そんなことより、ありえねぇよ。瞬間移動して、犬が人間になって……。こんなの夢に決まってる」
 若者は何を思ったのか突然、近くの物を蹴り飛ばし投げつけ叫ぶ。
「だーーーー! くそ! 目を覚ませ俺ぇぇぇ!」
「きゃあーー! 何やってるんですかぁ! ご主人様ぁ! ここは人様のお部屋ですよぉ! あっ! 痛っ!」
 主人の暴走を止めようとしたコタローは何かにつまずき転ぶ。足元には、
「ああ! 人ですよ、ご主人様。ここの主さんでしょうか? 何でこんなところで寝ているんですかぁ? もしも〜し」
 呼びかけにも応じないその細身の男に触れ観察していたコタローは、はっとして、叫ぶ。
「し! 死んでいます! ご主人様! この人、死んでいますよ!」
「なっ……死……?」
 若者の動きが、ピタリと止まる。
「ええ。だって、生きているようには見えませんもの」
 そう言ってコタローは、また男を観察する。
 仰向けに寝ている男の青白い肌。開ききった目は何も捉えていないのは一目瞭然だった。
「ねぇ、ご主人様。早くこっちに来て見てくださいよぉ」
 ばたん!
「へ?」
 突然の大きな物音にコタローが目を上げると、そこにいるはずの主人の姿がなかった。だが、ふと視線を下にずらすと、
「きゃあーー! ごっ、ご主人様まで死んじゃったーー!」
 若者は誇りっぽい床に倒れ意識を失っていた。
 コタローは慌てて駆け寄り、泣きながら叫び続ける。
「死んじゃいやです! ご主人様ぁ! ご主人様ぁ! ……」 

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【探偵の名】

 ご主人様ぁ。ご主人様ぁ。ご主人様ぁ……
「ああ! うるせぇ! コタロー!」
 若者は、切れ気味に叫びながら上体を起こす。
「いて!」
 頭を打っていたのだろう。若者は苦痛に顔をゆがめて頭を抱えた。
「ああ! よかったご主人様」
 安堵の顔を見せたコタローは、オリーブ色の厚めのローブを着ていた。やはり能天気そうな顔のコタローから目を逸らし、若者はゆっくり辺りを見回した。
 その部屋は今さっきまでいたはずの部屋と同じで、灰色の石造の手狭な部屋だった。だが、内装は簡素なベッドと足の長い丸テーブルが一台ずつと、見事に殺風景である。
 女が一人、木製の扉の脇で微笑んでいた。若者と目が合うと女は口を開いた。
「お目覚めのようね。私の名は『ラウ』ここ、『ウーリー魔術研究所』の研究員よ」
「は?」
 とろけるような耳に心地いい声の持ち主ラウは、ツヤのある長い黒髪をかき上げ微笑んだ。そして少し近付いてきて言う。
「あなた。探偵なんですって? 探偵っていう職業は実は私聞いたこと無かったのだけどね、さっきコタローに教えてもらったの。『どんな謎も容易に解き明かす天才』なんですってね」
「なっ!」
 ラウの言葉に、若者は赤くなったかと思うと青くなった。
 若者が責めるようにコタローに視線を送ると、当の本人は得意げな顔で意味ありげに頷いていた。
「犯人を捜してほしいの」
 ラウは唐突に言った。
 若者は女に見惚れているのか、ぼんやりとしたまま何も答えなかった。
 少し切れ長の目が色っぽいラウは、コタローと同じオリーブ色でツヤのあるハイネックのつなぎの服を着ている。しかも胸元までジッパーが開けてあるため、ふくよかな胸のふくらみに作られた谷間が覗いている。
 ラウは艶っぽく笑う。
「そうしないとあなた、魔術警吏署に突き出されるわよ」
「魔術警吏署?」
 とうとう、若者は聞き返した。
「ええ。だってあなた、人殺しの嫌疑がかけられているから」
「は?」
 一瞬、何の話をしているのか理解が出来なかった若者だったが、すぐにそれに気がついた。ラウは、あの死んでいた男のことを言っているのだ。
「あっ! 違うアレは俺じゃない」
 よろけながらベッドから出、若者は必死の形相で訴えた。
 ラウはにっこりと笑った。
「大丈夫よ。私は信じているわ。異世界のたん・て〜さん」
 ラウにそう言われ、若者はピタリと動きを止めた。そしてうつろな瞳でぽつりとつぶやく。
「異世界……」
 若者はふらりとベッドにへたり込み、消えそうな声でこう言った。
「ここは、本当に、魔術研究……」
 ラウはここで、若者と自分との間に魔術師に対しての共通の認識がないことに気がついて頷いた。
「ええ。そう、あなたたちが来た世界にはあまりいないらしいけど私は魔術師なのよ。ほうら」
 ふわり。と、突然、若者の体が宙に浮く。
「うっ! うわああ!」
 若者は悲鳴を上げる。
「うわ〜い。ご主人様すっご〜い。浮いてる浮いてるぅ」
 気分が悪そうな主人をよそに、コタローは嬉々として手をたたいていた。
「ああ。ごめんなさい。ちょっとやりすぎたかしら?」
 もうしわけなさそうにそう言って、ラウは若者に注いだ力を解放した。
 突然の浮遊感がよほど気持ち悪かったのか、若者はベッドにうずくまる。
「本当にごめんなさいね。夕飯の時間に呼びに来るから、それまでの間に体を休めておくといいわ」
 ラウは取っ手を握り去ろうとしたが、何かを思い出したのか若者の方へ視線を戻し聞く。
「ねぇ。名前聞いてなかったわね。教えてくれないかしら? 探偵さん?」
 ほんの少し間をあけて、若者はゆっくりと顔を上げた。そして言う。

「……彩羽《いろは》……」

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【面影】

「ご主人様!」
 採光窓さえも無い暗い廊下を右も左も分からずにただ突き進む主人彩羽の後を、コタローは懸命に追っていた。
「いいんですかぁ? ラウさんに頼まれたでしょ? 犯人を捜してほしいって」
「うるせぇ! ここは、俺の知ってる世界じゃない。俺の手には負えない! だから帰るんだよ」
 彩羽は振り返りもせずにそう言った。
「どうやってですかぁ?」
 コタローが問うと、彩羽はピタリと足を止めた。
「ご主人様ぁ」
 ようやく、彩羽は振り返り、言った。
「とりあえず、この施設から出る。犯人がこの施設の研究員なら、つまり魔術師だ。それこそ、俺の手には負えないし、まだ死にたくないし……」
「でもぉ。『逃げたなんて怪しい。やっぱりあいつらが犯人だ!』って、思われませんかぁ?」
「知るかそんなこと。俺にとっての関心ごとは、一刻も早くもとの世界に帰ることだ!」  言い切って、彩羽はまた、足早に歩き出した。
「はっ! ご主人様ぁ〜」
 コタローもまた主人を追って歩き出す。 「待ってくださいよ〜。ねえ、ご主人様ぁ? コタローはご主人様が探偵をしているところ見たことありませんよぉ? そもそもご主人様と同じ年の人たちは、みんな高校生ってのをやってるんでしょ? 何でご主人様は高校に行かないんですかぁ?」
「……るさい……」
「え?」
 彩羽は勢いよく振り返った。
「うるさいって言ってんだよ! お前には関係ないだろ!」
「!」
 怒鳴りつけられたコタローは、ビクリとして、硬直した。
「ちっ!」
 舌打ちひとつ、彩羽はまた廊下を進みだした。
 コタローは涙を滲ませている。
「うっ。な……何で、怒るんですかぁ? うっ……。何でいつも、怒ってばっかり……」
 彩羽は、まったくコタローを無視していた。
 廊下の向こうに明かりが射し込んでいるのが見えた。出口があるようだ。彩羽は、光に向かって駆け出した。
 走っているうちに出口が姿を現す。外に出た途端、風が彩羽の登場を歓迎した。
 出た場所は広い庭に面したピロティーだった。
 どちらへ進めばこの庭から出られるだろうか? 彩羽は、また闇雲に歩き出す。
 コタローはというと、もう何も言わず何も聞かず、ただ主人の背中を必死で追っていた。
 主人が緑茂る大きな樫木《オーク》が立っている施設の角を曲がった姿を確認して、コタローは走り出した。……と、
「うっ……」
 角を曲がった瞬間、コタローは主人の背中にぶつかった。
「ご……ご主人様?」
 呼びかけても主人はピクリとも動かなかった。
 コタローは回り込み、主人の様子を確認した。
「……ご、ご主人様?」
 彩羽は止まっていた。目を見開き、遠くを見やって……
 コタローは、そんな主人の視線の先を追う。
 少し高くなっている土地に、幅の狭い四角柱の石が規則正しく並んでいた。どうやらお墓のように見える。
 そこに立つ一人の少女。
 どうやら彩羽はその少女を見ているようだ。
 少女は肩より少し長めの輝く薄茶色の髪を後ろでひとつにまとめ、ラウの着ていたつなぎとおなじような服を着ていた。違いは五部袖、五部丈で、襟は折られているところだろうか。
 少女は視線に気づき、こちらに振り向く。
 無表情だが、どこか寂しげな瞳。幼さも残る端正な容姿。淡雪のように澄み切った白い肌。すらりと伸びた手足。……まるで人形のようだ。
(ご主人様に、少し似ているかも……)
 なんとなく、そう思ったコタローは、もう一度、主人のほうへ視線を戻す。
「?」
 コタローはそのときの主人の感情がよく分からなかった。なんと表現したらよいのだろうか? 彩羽のその顔には、さまざまな感情が浮かんでいたのだ。
 それは、怯え。驚き。苦痛。そして、懐旧……
 このとき、彩羽は、うわ言のようにこうつぶやいた。

「……雫……」            

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