(四)
客人であるストルーム刑事は、青白い顔をして現れたギンの姿を見て、思わずソファから立ち上がり、駆け寄った。
ギンはそんな刑事の顔を見て、元気のない笑みを見せる。
「やあ、ストルーム刑事、依頼を持ってきてくれたのかい?」
そう言う声にもどこか覇気が無く感じられた。
どうにも見ていられない。そう感じながら、ストルーム刑事は、一度頷いたが、すぐ、頭を振った。
「ああ、いや、そうだ、依頼はあるがよそへ持っていこう。君は少し仕事から離れた方が……」
「冗談じゃない!」
ストルーム刑事が言い終わらないうちに、声を荒げたギンは、自らの声に驚いたかのように、ビクリとした。
そして、詫びるように片手を上げ、力なく笑う。
「はは……。すまないストルーム刑事」
そう言って、ストルーム刑事の脇をすり抜けたギンは、情けない顔をしながら、額を手で覆い、よろけつつソファに腰掛けた。
「僕から、これ以上何も奪わないでくれ」
そのギンの声には悲愴感があった。
陰影のある、手で覆われたギンの顔は、表情こそよく見えないが泣いているようにも見えた。
そんなギンに対する哀れみは、おそらく顔に出ていたであろう。それでも、構わないとストルーム刑事は思った。誰かが自分の心配をしているのだと、気がつかないうちは、きっとこの男はどこまでも無理をする。「誰か」のためでなければ、自分の身も大切に出来ない、そんなどうしようもないやつなのだから。
「それに」
ギンの座るソファと、テーブルを挟んで対面となっているソファに、ストルーム刑事が腰を下ろしたとき、ギンは、また悲愴感ある声で話し出した。
「すこしでも、手がかりがほしいのだ。あの子に届く手がかりが」
「ギン……」
ストルーム刑事がそうつぶやいたとき、戸が開く音がしジュナが淹れ立ての紅茶を持って現れた。
「お茶をお持ちしました」
その透明感のある声に、胸の高鳴りを覚えつつ、ストルーム刑事は姿勢を正した。
「で? 依頼の話を聞かせてほしいのだが」
ギンに言われて、ストルーム刑事はハッと我に返った。ジュナ嬢に見惚れてしまっていたらしい。
「ああ、そうだったね」
ストルーム刑事は、咳払いを一つして続ける。
「実は最近、教会内での発狂事件がたて続けて起こっているのだよ。それも、方々で、しかも、信心深い紳士淑女や、牧師までもが発狂するんだ」
ギンは相槌も打たずに、ただ目を細めて聞いていた。ストルーム刑事は話を進める。
「彼らが、発狂するのは決まって教会内に一人でいるときだ。時には祈りを捧げ、時には懺悔しているときなのだろうね。そんな彼らは決まってこう言った。『悪魔が囁いた』と……」
ジュナは、テーブルに紅茶を置きながら、ギンの顔を心配そうに見ていた。ギンが口を開いた。
「それだけかい?」
「え?」
と、ストルーム刑事は聞き返した。
ギンは事務処理におわれて疲れきった者のような脱力感で、天井を見上げながら、再び問う。
「それだけかい? 情報は」
ストルーム刑事は、申し訳なく思いながらも、「ああ」とだけ答えた。
ギンは囁くような声で、「そうか」とつぶやき、立ち上がった。
「仕方ない、後は自分で調査するよりないね」
言いながら、ギンはコートと帽子を手に取った。
「あ、あの……」
ジュナが慌てた様子で立ち上がり、ギンを呼び止めた。ギンは軽く振り返る。
「ああ、出掛けてきます」
それだけ言って、後はこちらに注意も向けず、ギンはさっさと部屋を去っていった。
ギンが去った部屋。ジュナは扉を見つめたまま立ち尽くしている。
気まずさを感じながら、ストルーム刑事は腰を浮かす。
「あ、あの、それじゃあ、私も帰……」
「刑事さん!」
「はい!」
勢いよく振り向き、真剣な瞳で見つめてくるジュナに、ストルーム刑事は思わず、姿勢を正した。
「あの、あの……」
ジュナは、意を決して振り返ったようだったが、次の言葉を選び損ねて、迷っているらしかった。きっと、彼女は、ギンのことが聞きたいのだ。
ストルーム刑事は、ギンに対して軽い嫉妬を覚えながらも、笑みを漏らした。
「まったく、ここにも心配してくれている人がいるのだから、あいつは幸せ者だよ」
「え?」
ジュナは驚いたような瞳をストルーム刑事に向けた。
その、まっすぐな瞳に胸がときめいたことは、隠しきれているだろうか? ストルーム刑事は出来るだけ、冷静を装いながら、ソファを手で指し示す。
「座りましょうか、ジュナさん」
促されたジュナは、戸惑いながらも、やや興奮した様子でソファに腰掛けた。
別に構わないだろう。ギンも別に隠しているわけでもないだろうから。
それに、こんなにも、ギンを思っている彼女は、知る権利さえある気がする。
アルバルンツ・ストリート二〇二番地メリンツハイツ三号室の、一階の部屋がずっと、空き部屋になっている理由を。
(五)
この国は夏でも日が暮れると肌寒くなってくる。だから外出にコートは手放せなかった。
「ここ、だったな」
コートを纏ったギンは、しんみりした声でつぶやいた。
そうだここだ。ギンは、ここで、ノノリを拾ったのだ。
***
――あの日、路地裏の居酒屋の、勝手口の前。木箱が詰まれたこの薄暗い世界の片隅で、ノノリは裸足で震えていた。
辺りはすっかり暗くなっていて、月明かりだけが、彼女を照らしだしていたのを、ギンは見つけた。
――そこで何をしているんだ?――
ギンがそう問う。
――捨てられたの――
少女らしい甘い声で、ノノリが答えた。
――誰に? 親にか?――
この問いかけに、ノノリは震えながらただ頷いた。
ギンは、ノノリにそっと近づいていく。
――お前が、悪魔召喚師だからか?――
ギンがそう言うと、ノノリはハッとして、ギンの顔を見た。
ギンはため息を吐いて言う。
――悪魔召喚師のことは、世間では随分、誤解を受けている。君は大丈夫だ、「夜明けの太陽」だから。それでも――
ギンはノノリが、じっと、自分を見つめたままでいることに気がついた。
捨てられた子犬を見つけてしまったときのような、ほとんど衝動的な保護本能で、ギンは思わず言っていた。
――行くところがないなら、おいで――
あの頃は、まだ幼かった。ノノリも、おそらくギン自身も。
「もしかしたら、いまも、まだまだ、僕は幼いのかもしれないね。ノノリ」
自嘲に満ちた笑みを浮かべながら、ギンは路地裏をふらりふらりと歩き出す。
「だって、気がつかなかった」
「この力は、悪魔を召喚する力。そこに、悪魔的な意思が働かないわけがない」
「僕は、はじめて、この力が、怖いと思ったよ」
力が目覚めてから初めて。
***
あの、子供の頃。すでに、力に目覚めていた異母兄から受けた攻撃がきっかけでギンの力は目覚めた。
攻撃は兄の残酷でたわいもない悪戯。いや、兄は妾腹の弟であるギンが、おそらく目障りだったのだろう。そうギンは、モリスにとっては、幸福の破壊者なのだから。
だから、責めるつもりもない。
むしろギンは感謝した。この力が目覚めるきっかけを与えてくれた兄に。
いわゆる、「爆発」型の目覚めをしたギンは、悪魔に飲み込まれることも、喰われることもなく、すぐに感覚で力の流れを掴んで悪魔を従わせていた。
今でも覚えている。あの時の兄の驚いた顔。そして、悔しそうな顔。
何も持っていなかったギンが、初めて得た優越感だった。
多くの才能に恵まれて、何でも手に入れることが出来た兄に、初めて「勝った!」と、思った瞬間だった。
あれ以来、この力は唯一のギンの自慢で、ギンの自身の素で、だから、恐れるなんてことは知らなくて。
ああ、でも、今は。
***
どこをどう、さ迷い歩いていたのだろう。覚えていないが、ギンはちゃんと目的地についていた。
そこは人通りの多い賑やかな通りにあるような大きな教会ではなくて、ひっそりとわびしい通路にある小さな教会だった。
教会の右隣は、藪になっていた。左隣は、雑草が伸び放題の空き地。
ギンは、その教会の重い扉を開けた。
簡素な造りの薄暗い教会内には、椅子が数脚と祭壇が一つだけ。
このひんやりと寒い教会は、もう管理する人さえいないのか、どこか埃っぽかった。
ギンは祭壇の前まで歩んでいく。
ふと見ると、祭壇の後ろの壁に悪魔のようにも見えるシミが出来ていた。
ギンはストルーム刑事がギンの元に持ってきた依頼の話を思い出した。
それは、教会内での発狂事件。
ただ一人で祈りを捧げている者たちが出会った、悪魔の囁き。
ギンは、祭壇の前に跪いた。
「ごめん……ノノリ」
(六)
「その、ノノリちゃんていう女の子が使っていた部屋なんですね。一階にある空き部屋は」
しんみりとした声でジュナは俯き言った。
ジュナの座っているソファの、テーブルを挟んで向かいのソファに腰掛けているストルーム刑事も、同じように、しんみりと話す。
「空き部屋、というよりあの頃のまま、いつノノリちゃんが帰ってきてもいいように残されてあるんだ」
帰ってきてもいいように、というよりは、むしろ、あの部屋に少しでも手をつけると、ノノリが戻ってこないのではないかと、ギンは恐れているようである。
ギンは、あんなことになったノノリがまだ帰ってくるのだと信じているのだ。
ストルーム刑事は乾燥した喉を潤すために、もう冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。冷たい紅茶は美味しい。熱い紅茶も美味しい。でも、冷めた紅茶はまずい。
それでもストルーム刑事はぐぐっと冷めた紅茶を飲みほした。そしてぽつりと言った。
「ギンは、ノノリちゃんを巻き込んでしまったことを後悔している」
瞳を閉じれば思い出す。あの、悪魔に呑み込まれたノノリを。
そう、ストルーム刑事はそこに偶然居合わせていた。だから、全てを見ていた。
「ああ、ノノリちゃん」
ストルーム刑事は神に懺悔するもののような声と調子で、少女の名を呼び、あの日のことを回想する。
***
あの日、神の真似事と称した、性質《たち》の悪い犯罪劇は、ギンの協力で収束し始めていた。
ギンの活躍で一人の若者が追い詰められたのだ。
若者はちょうど、例の秘密結社に所属する悪魔召喚師の協力で、自分の気に入らない者を亡き者にしようとしていたところだった。そこを、その悪魔召喚師とともに、ギンがひっ捕らえたのだ。
その若者と悪魔召喚師の供述で、事件は一気に解決へと向かうかと思われたとき、あの男は姿を現した。
あの男……ギンの異母兄、モリス。
モリスは、ギンに言った。聞くものの魂を、不安や恐怖で震わせるような、それはひどく不気味な声で。
「あの少女は、ある場所に連れて行った。返して欲しければ、くくく……ついて来い」
モリスはギンが留守の間にノノリを誘拐していたらしいのだ。
ギンがひどくショックを受けていることは、ストルーム刑事にも一目で分かった。
ストルーム刑事は、刑事としてではなく、友としてギンを心配し、それに付き従った。
移動はモリスが用意した豪華絢爛な馬車だった。しかも窓には黒いカーテンが引かれていて、だから、どこをどう走って、どこへ連れて行かれるのかさえ見当がつかなかった。
車内は不思議な空間だった。
世間を混沌へと導く悪魔で世紀の大犯罪集団の頭目、その左隣に座るのは刑事。そして右隣には探偵。
ギンは、終始ピリピリとした空気を漂わせていた。ストルーム刑事は、味わったことのない種類の緊張に、身を震わせていた。
だが、モリスだけはむしろ、この状況を楽しんでいるようだった。背筋をピッと伸ばし、顎を上げた姿勢で、不適に笑んでいた。その姿勢はギンに視線をやったとき、見下ろすような形になるためだろう。
馬車がどれくらいの時間走っていたのかは分からない。ただ、ストルーム刑事にはその時間がひどく長く感じられた。
ギンが、ノノリへの心配と、モリスに対するストレスでかなりイライラしてきたのが、ストルーム刑事には分かった。
そんなとき、モリスは、まっすぐ前を向いたまま唐突に口を開く。
「手を引けとは言わない。もう、あの遊びも潮時だからな」
愉快そうに「くくっ」と笑ったモリスは、今度は打って変わってギンを恨みのこもった目で睨み、言った。
「ただ、言っただろ? 私を虫けら呼ばわりしたことを、お前は必ず後悔すると」
ギンの表情が一変した。真っ青な顔になり、声を荒げる。
「ノノリは!」
モリスは冷静な態度で、にやりと笑った。
「そうだ、そういうお前の取り乱した姿が見たかったのだ」
ギンがハッとした顔をしたとき、馬車が動きを止めた。
「降りよう」
モリスが言う。
ストルーム刑事は不気味さに身を震わせたまま、慌てて馬車を降りた。
そこは、どことも知れぬ森に囲まれた墓地だった。
モリスがこれから起る忌まわしい遊びの舞台に、ここを選んだ理由はおそらく単純に、こちら側の恐怖心と不安感をあおるためだろう。
モリスは、ギンが馬車を降りた瞬間を見計らって言った。
「見ろ!」
モリスが大げさな身振りで指し示した方角に、悪魔がいた。
ストルーム刑事は、実際悪魔というものをこの目で見たのはこれが初めてだった。
にもかかわらず、一目でそれとわかった。
それらは、二メートルも三メートルもあるかと思われるほど大きな体で、そして烏の濡れた羽のように、黒く光放っていた。
しかも、手も足も異様な形をしたその悪魔は、そこに何匹もいた。
悪魔の前には、それぞれの飼い主らしい黒尽くめのスーツを着た男たち、と、それから……
「ノノリ!」
ギンが、その存在に気がつき叫び、駆け出した。
モリスは笑った。
「くくく! さあ、ショウの始まりだ! 少女が悪魔に吸収される様をとくと見よ!」
モリスが両手を天に掲げた瞬間。一匹の悪魔が動き出す。一本の柱に磔にされたノノリに……ぐったりと動かないノノリに、その長く細くぬめった両の腕を絡みつかせようとする。
ギンは、阻止すべく、すぐさま地に手をつける。
だが、取り乱しているギンは、上手く集中できなかったようで悪魔を召喚し損ねた。それでも、再度、試みる
その時、ノノリの悲鳴が上がった。
ただの悲鳴ではない。金属の音にも似た、恐怖の絶頂を表した悲鳴。
「ノノリーー!」
ギンは召喚も中途半端に、狂ったように叫び、狂ったように駆け出す。
「ギンさ……」
ノノリのかすかな、声が……
***
「ああ」
ストルーム刑事は思わず情けない声を漏らした。
これ以上は思い出せない。思い出したくない。あまりにも、残酷すぎて……。
数日後、ストルーム刑事は事件の進捗状況を尋ねるべく、いや、ギンの様子を見に行くために、メリンツハイツを訪れた。
「やあ、ストルーム刑事。せっかく訊ねてきてくれたところを、申し訳ないのだがね。僕は今から出かけるところなのだよ」
部屋の扉を開けるやいなや、ギンがそう言った。そして、コートを着込んだギンは、「じゃあ」と、言って、さっさと出て行ってしまった。
もう少し、ギンの顔色や何やらを確認したかったのだが、仕方がない。
「ギンさん、毎日、毎日、同じ時間に出かけるんです。しかも夜が更けてからしか帰ってこないんですよ」
と、紅茶を淹れて運んできたジュナが言った。
仕事をしているとギンも少しは気が紛れるのだろうか?
ジュナは、テーブルに紅茶を置きながら囁くような、それでいてストルーム刑事に何事かを訴えているかのような声で言った。
「私、先日、ギンさんのことが心配で後を追ってみたんですよ。そしたら、ギンさんどこに行ってたと思います? 教会ですよ。小さな、誰もいない、さびれた教会に」
「教会?」
ストルーム刑事が問うように繰り返すと、ジュナは、コクリと頷き言った。
「しかも、毎日ですよ」
仕事をしているのかと思いきや、毎日教会に行っている?
ストルーム刑事は、首を傾げた。
一体どういうつもりなのだろう? ノノリに対する罪悪を懺悔するためにか、それとも、ノノリを返して欲しいと、祈っているのか。
そこで、ストルーム刑事はようやく思い出した。自分が持ってきた依頼の内容を。
「そうか、ギンは自分を囮にするつもりなんだ」
教会と聞いて、すぐに気がつかなければならなかった。まったく自分は刑事の本分を忘れていると、ストルーム刑事は心の中で深く反省した。
「囮?」
ジュナは、ようやくストルーム刑事の方を見た。その顔にはありありと不安が浮かんでいる。
そして、ジュナは何か口の中でつぶやいているようだったが、突然に立ち上がり扉に向かって駆け出した。
ストルーム刑事は慌ててジュナの腕を掴んだ。
「どこへ行く気だい?」
ジュナは力なく頭を振りながら言った。
「だって、ダメだわ。自分を囮にするだなんて!」
「止めに行くつもりなのかい?」
「刑事さんは、ギンさんを放って置けるの?」
ジュナはストルーム刑事をまっすぐ見つめてそう言った。
勿論、放ってなど置けない。
だが、囮になってでも、もう一度ノノリと会いたいというギンの思いを、この子に邪魔させるわけにもいかない。そう思ったストルーム刑事は、ジュナの肩に手を置いて言った。
「その教会はどこにあるんだい? 案内しておくれ」
止めるなら、自分が止める。
だが、彼の性格をよく知っているストルーム刑事は、今のギンには、どんな言葉も説得も意味がないことを知っていた。
だから、せめて、友として、彼を手助けしてやりたい。そう思うのだった。