(十一)
何が起こったのか。そのとき、その場で、目を懲らして見ていたはずのストルーム刑事にも的確には答えることが出来ない。
ただ言えることは、ギンが、そのときの現状をひどく悲しんでいて、モリスに対してかなりの怒りを覚えていて、ノノリにどうしようもないほどの愛情を感じていた、ということだけだ。
ストルーム刑事が判断し理解できた範囲で説明をするのならば、それは混乱と騒擾《そうじょう》と悲鳴である。
事が起こったのは、モリスがノノリを吸収した悪魔に、合図を出した直後であった。
悪魔のノノリが命令に従うべく動き出すよりも早く、ギンが雄叫びを上げた。いや、泣き喚いているようだった。それとほぼ同時に地面が先ほど以上の爆発を起こし、そこから大量の悪魔が地上に姿を現した。
「ノノリ! ノノリ!」
ギンが叫んでいる。
「やめろ! ギン!」
今度ばかりは危険を感じたモリスも叫んでいた。だが、今のギンにその声は届かなかった。
やがてギンに近づくことができなかった有象無象の悪魔たちはその牙を、モリスや部下たちの方へと向ける。
部下たちは何とか応戦するが、その甲斐なく暴走している悪魔たちの手に落ちて行く。
「やめろ、やめろ、やめろ! そんなことをしたら、お前も危ないのだぞ、ギン! 力尽きて死ぬのだぞ!」
と、モリスが必死にギンに呼びかけていた。そのギンを殺そうとしていた男だ、勿論その身を案じての発言ではない。己の身に危険を感じての懇願である。
悪魔同士の乱闘や爆発で砂塵が舞っていた。それがベールとなってストルーム刑事はギンの様子を確認することが出来なかった。だが、その中でも四足の悪魔に乗るモリスの姿だけは見て取ることが出来た。
その大悪党であるモリスはひどくうろたえていた。この惨状ではもう部下も頼りにならないのだろう。
多くの人々を狂わせたモリスも、暴走したギンの力の前ではなすすべもなく、「嫌だ、嫌だ!」と、悲鳴を上げて、「覚えていろ! このままで済まされると思うな!」そう、恨み言を言いながら、地下から涌いて出てきた陽炎のような黒い悪魔に、自らが乗る悪魔とともに絡み取られて、地面に飲み込まれていった。
「ああ……」
その様子を遠くから見ていたストルーム刑事は思わずモリスに同情した。だが、モリスがノノリにしでかしたことを思えば、ふさわしく惨めな最後だったのかもしれない。
そんな時。
「うわああ! ノノリぃ!」
ギンが狂ったようにそう叫んだときだった。最後の大爆発が起こる。それは何が起こしたものだったのだろうか? とにかく爆発が起きた。それは鼓膜がつぶれるのではないかと感じるほどの轟音と、立っていられないほどの揺れを引き起こした。
ジュナと、ストルーム刑事は身を突っ伏して耐えていた。暫くすると、揺れも収まった。ストルーム刑事はゆっくりと顔を上げる。
辺りは煙のような砂塵が舞っていた。
砂塵が晴れると現状はすべて見て取れた。ストルーム刑事は少しふらつきながら立ち上がる。
「ギン……」
爆発はやはり彼が起こしたもののようだった。それとわかったのは、ギンを中心に半径も大きな穴が開いていたからだった。
そこに、多くの悪魔や、黒尽くめの男が意識を失って倒れていた。立っていたのはギンだけ……。
そのギンが、ふらりふらりと歩き出した。どこを目指しているのだろうか? 彼は真っ直ぐ何かに向かって歩いていっている。
ギンの進行方向をずっと辿っていって、ようやくストルーム刑事は気がついた。あの、悪魔のノノリがそこに倒れていることに。
「ノノリ……ノノリ……」
何度も名前を繰り返し呼びながら、夢遊病者のような足取りで、ギンはノノリのもとへと向かっていく。
やがてギンはノノリのそばに崩れるようにしゃがみこみ、その頭を撫で始めた。
「ごめん……ノノリ……」
ギンは涙を流していた。それを見ていたストルーム刑事もつられて泣きそうになった。
ピクリと、ノノリが動いたようだった。ギンがハッとしたとき、悪魔のノノリは目を覚ました。そしてすぐにノノリは、そばにいたギンの存在に気がついたようだった。
気がついた悪魔ノノリは、驚いたような表情をして飛び起きた。そしてノノリは、切なそうな顔でギンを見つめた。
「ノ……ノノリ……?」
ギンが問うように、その名を呼ぶと、悪魔のノノリの瞳がかすかに揺れたようだった。いや、確かにノノリは動揺していた。
わずかに首を振りながら、ノノリはジリジリと後ずさりをする。
もう、間違いなかった。この行動はどう見ても悪魔のそれではない、人間の人間らしい行動である。
そう、ノノリはその悪魔の体の中で、意識を取り戻したのだ!
「ノノリ!」
嬉しさのためだろう、弾むような声でギンはノノリに呼びかけて、抱きしめようと手を伸ばした。
だが、ノノリは身を縮めてそれを拒絶した。
「ノ、ノリ……?」
不安げに、ギンはノノリの様子を窺った。ノノリは顔を上げる。その瞳は悲しそうに潤んでいた。
ノノリはゆっくりと口を開く。ギンは身を乗り出してその言葉を聞こうとしていた。だが、次に出されたその声は、おおよそ人のものとは思えない低く嗄れた声だった。
「グアアウ……」
そう、しかもその悪魔の声帯は、人語を操ることが出来なかったのだ。
それに絶望を感じたのは声を出した本人であった。
ノノリはわなわなと震えだし、自らの体を激しく痛めつけ始めた。
「ヴォウア! ヴヴヴヴ!」
悔しさのあまりに出る声にまた、ノノリは益々の絶望を感じていくようだった。ノノリは更に激しくその体を痛めつけ始めた。
その光景は、見ているものの胸に悲愴感さえわきおこさせる。
ギンはとっさにノノリを抱きしめた。そして語りかける。
「もういい。もういいんだよノノリ……」
ノノリは拒絶するかのように暴れだした。だが、ギンは決してノノリを離そうとはしなかった。
「ごめん、ごめんノノリ……。ああ、全部僕のせいだね、ノノリ……ごめん……」
謝り続けるギンの瞳から流れる涙は、止め処もないものになっていた。そのとき、必死に抱きしめるギンを、ノノリは渾身の力で突き放した。そして叫ぶ。
「ヴヴヴヴヴヴー!」
それはまるで泣き喚いているかのようだった。
ノノリは醜い自分を恥じてか、そのままギンに背を向けて、大きな体を揺らして去っていこうとした。
「ま、待ってくれノノリ!」
その呼び止める声に、ノノリは答えようとはしなかった。このような姿をこれ以上ギンの前にさらしたくなかったのだろう。
それは乙女心と言うやつだった。
「い、嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ! ノノリ!」
それこそ泣き喚きながら、ギンはノノリを追った。
「俺を一人にしないでくれ、ノノリ!」
追いかけながらギンは叫ぶ。
「俺はノノリがいないとダメなんだ! 知っているだろ?」
とうとう追いつくことが出来たギンはノノリのその大きく硬い背中をひしと抱きしめた。
「ノノリ……頼むから、俺のそばにいてくれ。そばで俺を見守っていてくれ……」
ノノリは首だけで振り返り、悲しそうな目で頭を振った。
ギンは叫ぶ。
「でも、俺はノノリを離さない!」
強い意志を感じるギンの言葉を聞いたノノリは「ヴヴヴ」と鳴きながら、その場に崩れ落ちた。その瞳からは真珠のような涙が零れ落ちていた。
ギンはノノリの体を優しく撫でながら囁く。
「一緒に帰ろう……。メリンツハイツに……」
低く響く声で鳴きながらノノリがギンに寄り添った。
二人の姿を見つめながら、ストルーム刑事はしんみりとつぶやいた。
「ああ、そうか……。よかったな……ギン……」
これが、ギンが望んだ結末なのだ。どんな姿になってもギンのノノリに対する愛は変わらない、いや、ノノリでなければ愛せないのかもしれない。
「私……。ギンさんの心には入れそうもありませんね」
ジュナはストルーム刑事の横に立ち、少し悲しそうに微笑みながら、そう言った。
ストルーム刑事は再び寄り添いあう二人へ視線を戻し、空を見上げた。
空は抜けるほど青かった。
「ああ、終わったんだね」
(十二)
夏が短いその国で今ようやく夏が真っ盛りを迎えていた。
そんなアルバルンツストリートにあるメリンツハイツ三号室の扉の前に、険しい顔で立っている女性がいた。
よく見てみると、それはジュナ嬢であった。それを見かけたストルーム刑事は、寄っていって声をかけた。
「どうなされたのです? ジュナさん」
ハッとして振り返ったジュナの美しかった長い髪は肩の辺りで切りそろえられていた。
「あ……刑事さん」
ジュナは決まり悪そうなぎこちない笑みを浮かべた。
「入らないのですか?」
ストルームがそう聞くと、ジュナは少し暗い顔をして俯いた。そしてぽつりと言った。
「……私、ここを辞めようと思っているんです」
「え?」
「でも、決心がつきかねていて」
「どうして、辞めようなんて……」
どうしてなど、ストルーム刑事にも分かりきっていた。だが、ふいに口をついて聞いていた。
ジュナは俯いたまま答えた。
「やっぱり辛いですよ、失恋したんですもの。でも、今、私が辞めればきっと、ギンさん困られてしまうんです。だから……迷って……」
暫し黙していたジュナは決意が固まったのか、突然キッと顔を上げた。
「いえ! やっぱり辞めます。このままじゃ、諦め切れなくて新しい恋が出来ないですからね」
少し悲しそうに笑いながらジュナはそう言って、取っ手を握って扉を開けた。
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メリンツハイツ三号室の二階にあるその部屋の戸を開けたとき、聞こえてきたのは部屋の主の嬉しそうな声だった。
「ノノリー。ホラ美味しそうなケーキだろ? さっき君のために買ってきたのだよ。お茶を淹れようか?」
ストルーム刑事は思わず入室するのをためらった。
そんなストルーム刑事の登場に気がついたのはノノリだった。ノノリは大きな指でストルーム刑事を指し示した。
それでようやくギン気がついた。窓際の事務机に腰掛けていたギンは振り向きざま立ち上がって、にこやかに挨拶をした。
「やあ、ストルーム刑事。さて、今日は何の用だい?」
ストルーム刑事は笑顔を返す。
「いや、今日は久しぶりに休みを貰ったからね、せっかくだら顔を見に来たんだよ」
「それは随分と寂しい休みじゃないか」
「大きなお世話だよ」
笑いながらそう言って、ストルーム刑事はノノリのほうへ視線を移した。だが、すぐに目を逸らしてしまった。その姿を見ることさえ、ためらわれるようだったからだ。
しかし、大家はよく許可したものだと、ストルーム刑事は思った。いくら、これはあのノノリなのだと説明されたところで納得することは難しいだろう。よほどギンの大家に対する覚えがいいのか、大家が寛大なのか。
そんなとき、ストルーム刑事の背後からジュナがおずおずとギンに声をかけた。
「あ、あの……ギンさん」
ジュナの存在に気がついたギンは、にっこりと笑った。
「ああ、ストルーム刑事、ソファに座ってくれたまえ」
手でソファを指し示しながらそう言ったギンは、自らもソファに向かって歩きながら、ジュナにこう言った。
「おはようジュナさん。それ、よく似合っているね」
「え?」
ジュナは何のことを言われているのかわからなかったようだった。ギンは微笑みながら自らの髪を指差した。
「あ……!」
ジュナは自分の髪に触れる。その頬は桃色に染まっていた。
ギンに視線をやり、ソファに腰掛けながら、まったく罪作りな奴だ。と、ストルーム刑事は思っていた。
ジュナはそれだけであっさりと先ほどの決意を捨て去ったようだった。ソファに腰掛け、ノノリを手招きしているギンにジュナはこう語りかけた。
「あの……紅茶を淹れてきますね」
「ああ、お願いできるかな?」
ギンがジュナに笑顔を向けてそう言った。ジュナはおそらくギンの笑顔を見たのは初めてだったのだろう、その笑顔を見た瞬間、ジュナは綻びたての花のような笑顔をみせた。
「すぐ、淹れてきますね」
弾むような声でそう言って、弾むような足取りでジュナは部屋から出て行った。
ギンはノノリに優しい眼差しを向けて語りかける。
「ねぇノノリ。ジュナさんがお茶を淹れてきてくれたらケーキを食べようね」
ノノリは声も出さずに頷いた。
ストルーム刑事は二人を見ていても、けして微笑ましい気持ちにはなれないでいた。おそらく、少女のあの可愛い本当の姿を知っているせいだろう。
ストルーム刑事はいたたまれなさを感じ目を逸らし、立ち上がった。
ギンは気がつき、顔を上げて聞いてきた。
「おや? どうしたんだい?」
ストルーム刑事は無理に笑顔を作り、できるだけ落ち着いた声で言った。
「すまない。用事があるのを今、思い出したよ。ジュナさんによろしく伝えておいてくれ、じゃあ」
背を向けたストルーム刑事は、そのままそそくさと部屋を出た。
ギンは勘がいいから、変に思ったりしなかっただろうか? と、ストルーム刑事は心配になったが、引き返す気も起こらなかった。
ストルーム刑事は、扉に背をもたせかけ、深いため息を吐いた。
そして瞳を閉じて、強く思う。
――願わくば 二人がずっと幸せだと感じていられますように……。
と……。
目を開けた刑事は戸から背を離し、ゆっくりと階段を下っていった。
〜 end 〜