【妖魔祈祷書 戴きます】
歴史のある、赤レンガの建造物が立ち並んだ街『カレーヌミリア』に、明るい陽光が降り注いでいる。
情緒あるその石畳の街には多くの露店が立ち並んでいて、店女たちの明るい声がそこいらで高らかと響きわたっていた。周りでは、野良猫が魚を咥えてのんびりと闊歩している、楽しそうな顔の買い物客達は、品定めをし、無邪気な子供たちは、はしゃぎながら駆け回る。
今、この『西パヒュノット大陸』は、産業革命の真っ只中であった。その中にあってこの街の明るさと和やかさは珍しくも貴重だ。
ツバキは胸を弾ませながらキョロキョロキョロと、カレーヌミリアの街を見回していた。
「ココ、いつ来ても賑やかな街ネ〜」
港町でもあり運河も走っているこのカレーヌミリアは『西パフュノット大陸』最大の貿易の要所でもある。だからこそこれほどの活気が溢れているのだ。
「うわあ。コレ可愛いネ」
ツバキが目を奪われたのはチロット大通りの木箱の台に並ぶ、おもちゃのようなアクセサリー。
「こぉら、はぐれるな、迷子になるぞ」
そう言ってツバキの頭をぽん、と叩いたのはジン。
ツバキは振り返り嬉々とした声で言った。
「見てジンさん! コレ可愛い、可愛い♪」
「ああ、そうだな可愛いな」
ジンは面倒そうに答えた。
「お嬢さん、安いものだから彼氏におねだりしたら?」
と、ふくよかな体系の店番の女が、にこやかに微笑みながらお決まりの文句を言うと、ツバキは顔の前で手をひらひらさせながら、その言葉を否定した。
「いやいや、ジンさん彼氏なんかじゃないネ。でも買って欲しい〜ヨ」
ツバキはおねだりの為に可愛く上目遣いでジンに視線をやったが、ジンは即答する。
「ぜってぇヤだ」
ツバキはすぐに、ふくれっ面を作った。
「ぶー。ジンさんケチぃ!」
「ケチじゃねぇよ、無駄が嫌いなだけだ。ツバキに奢ってやって何のメリットがあるんだ?」
「そういうのをケチと言うのだろ」
横から口を挟んだのはゲンナだ。
ゲンナは黒のパンツスーツに白いシャツ、黒いネクタイによく磨かれた黒の革靴姿、そして腰に装飾の付いた剣を帯びている。これが彼女の標準スタイルだ。
「そうよネ、ゲンナさん。ジンさんケチよネ」
味方が現れた嬉しさかツバキは小躍りをした。
「そう言うならゲンナ、お前が買ってやれよ」
ジンは冗談のつもりで言ったようだったが、ゲンナは躊躇もせずにこう言った。
「じゃあ、全部もらおうか」
「ぜっ、全部!」
店番の女は思わず立ち上がり裏返った声でそう叫んだ。近くにいた人たちも驚いた顔を向けている。ジンはあっけに取られた顔をした。ツバキは、というと「わーい」と、単純に喜んでいた。
ゲンナは幼子を見るような眼差しで微笑みながらツバキを見つめて言った。
「ツバキは本当に寄り道が好きだな。だが品物受け取ったらすぐに行くぞ」
***
カレーヌミリアのチロット大通りをまっすぐ南に向かうと通りと同じ名前の広場に出る。
「ここで待っていろ」
ゲンナは簡単にそう言い残し、チロット広場から数十メートル先の白亜の豪邸へと消えていった。
広場にも、たくさんの露店が並んでいた。真ん中には小さな噴水もあり、降り注ぐ光は水に吸い込まれ、また反射し町をやさしく包む。
「ゲンナさんが宝石売りに行った、あのお屋敷の主さんどんな人?」
と、ツバキは広場の脇の楓の木に寄りかかりながら、暇を紛らわすためにジンに問いかけた。
楓の木の後ろには背の低い鉄柵に囲まれた赤いレンガの家がある。その家は、小さいが緑豊かな前庭を持っていた。
カレーヌミリアには、こういった前庭つきの家がたくさん建っている。いや家だけではない、店舗の前にも必ずと言っていいほどに小さな庭を設けていて、木々や花々で彩られているのだ。
交易の街にも係わらず商売気に浸らずに緑を愛でるカレーヌミリアの人々の性質は、この地域特有の穏やかな気候が育んだものなのかもしれない。
鉄柵に腰掛けているジンは、長閑な街の空気にあてられたのか、ぼんやりとしながらツバキの問いかけに答えた。
「さあな? 何でもゲンナの祖父の時代からの知り合いらしいが、俺も会ったことがないから、よく分からんが、地価が馬鹿にならないこのカレーヌミリアで、あんな豪邸に住んでいるんだから、随分な資産家ではあるんだろうな」
それだけではない、代々続く怪盗一族であるゲンナの祖父の代から、彼らと関係を持つ人間なのだから、おそらく一筋縄ではいかない人物なのだろう。
ツバキは、その人物の人相や性格、人となりなどが知りたかったようで、期待通りの答えがえられずに「ふ〜ん」と、気のない返事をした。
そんな時。「お花いりませんか?」と、たくさんの花を咲かせた大きな籐のかごを持った花売り娘がジンに声をかけた。
「ああ、じゃあ花束を作ってもらえますか?」
ジンのそのセリフにツバキは思わず目を輝かせた。ジンは、色とりどりの花を白いリボンで束ねた花束を受け取り、去っていく花売り娘に嬉しそうに手を振った。
そんなジンがツバキの視線に気づいた。
「なんだ?」
「なんだって? くれないのカ?」
「お前は何でも欲しいんだな? まあいい、誰にやるでもないからな。ホラ」
ジンは放り投げるようにしてツバキに花束を渡した。花束を受け取ったツバキは怪訝な視線をジンに投げかける。
「誰にやるでもない花束、何故買っタ?」
「あのお姉さん、美人だったよな」
「まあ! ツバキには何も買わないのに、あのお姉さんから花束買うメリットは何ネ!」
同じ女性なのに扱いに差をつけられたことに腹が立ったのだろう、ツバキはやや怒っている。
ジンはきっぱりと、そして何故か誇らしげに言い放った。
「単純に、下心だ!」
「はあ」とため息を吐いたツバキは珍しく呆れた声で言った。
「ツバキ、ジンさんとお仕事するのなんかイヤになってきたネ」
「おお、そういえばツバキは何で、ゲンナの仕事を手伝うことになったんだ?」
ジンの唐突な問いかけに、ツバキは何故か無理に笑顔をつくった。
だが、ジンは、その変化に気が付いていないようだった。ツバキは、勤めて明るい声をだして言う。
「えへへ〜。あのねツバキ世界が見たかったヨ。ツバキの故郷『東パフュノット大陸』よりずっと東の果てにある小さい島国ネ。そこから、やっとの思いでこの大陸にやってきタ。でもツバキここに来てすぐ、ムサくてゴツくてブサ〜イクな男たちにからまれたヨ」
「おい。ムサいにゴツいはともかく、ブサ〜イクって、お前それ差別用語だからな」
「ん? 差別と違う事実ヨ」
「まあいい、で、そこに現れたのがゲンナか?」
「おお! そうネ! 何故分かった? さては見てたナ?」
ジンは短いため息をひとつ吐く。
「お前のセリフは本気か冗談かよく分からん」
ツバキは拳を握り、熱をこめて語った。
「本気ヨ! ツバキはその時、本気でゲンナさんに惚れたのヨ!」
ツバキはゲンナとの出会いを思い出して興奮してしまったようだった。颯爽と現れて男たちを華麗に追い払ってくれたゲンナは、本当に格好良かったのだ。
興奮していたツバキは、ふと冷静さを取り戻し聞く。
「そういえばジンさんは、ゲンナさんと幼馴染。だからゲンナさんの弟アイシルとも幼馴染。ジンさん何でアイシルと仲良く出来ない?」
ジンの顔が、あからさまに曇った。そして腰のベルトに差し込まれた長刀を強く握り締め、苦痛に耐えているような表情でツバキを睨み付けた。
だがツバキを責めても仕方ない、と、そう思い直したのだろう、ジンは長いため息をつき、たった一言だけ言った。
「父のためだ」
「んん?」
ツバキが首をかしげるとジンは目を伏せた。
「もういいだろ。話したくないんだ」
苦しそうな声でそう言った後、ジンは背を向け歩き出した。
「あっ、ジンさん。どこ行くネ?」
ジンは返事もせず振り返りもしない。
「ジンさん! 報酬、ツバキが独り占めしちゃうヨぉ!」
ツバキの呼びかけに答えもしないジンは、ぐっと、体をこわばらした。
そんなジンは、前方不注意で、誰かとぶつかったようだ。
「あっ、悪い。あっ……」
相手が幼い少女だと気づいたジンが、しゃがみこみ少女と目線を合わせて頭をなでた。
「お兄ちゃんがよそ見していたせいだな。ごめんな」
少女は、ぷるぷると頭を振りジンの目をじっと見つめて問う。
「お兄ちゃん。怪盗ゲンナ知ってる?」
ジンは穏やかな顔で微笑み頷く。
「ああ、知っているよ」
それを聞いた少女は、手にしていた手紙をジンに差し出した。受け取ったジンはまた微笑む。
「何だ? ファンレターかな?」
少女は、またぷるぷると頭を振った。
「んんん。さっきね、ツリ目のお兄ちゃんに、このチロット広場にいる怪盗ゲンナか、そのお仲間に、このお手紙を渡して欲しいって言われたの」
「な、なに!」
瞬間、ジンの目がカッと見開かれたのがツバキからも見て取れた。
「ジンさん」
ツバキは名を呼びながら慌ててジンの元へ駆け寄っていく。
だがツバキの声が聞こえていなかったのか、ジンは血相を変えて、少女の肩を強く掴み揺すって怒鳴った。
「そいつにこれを、どこで渡された!」
「やめるヨ、ジンさん! 女の子かわいそう!」
やっとそばまでやってきたツバキが、そうたしなめるとジンは、ハッと我に返って冷静さを取り戻したようだった。
美しくも穏やかな街に似つかわしくない怒声に、人々の注目が集まっている。
「あっ! ご、ごめん!」
顔を真っ赤にして涙を流す少女に気づき、ジンは慌てて謝ったが、当然だろう、おびえた様子で少女は背を向け駆けて行ってしまった。
「あ〜あ。ジンさん、何でアイシルのことになると人変わル?」
「……ホントだ、最低だな、俺は」
ジンは、しゃがんだまま、あからさまに気落ちしている声を出した。ツバキがそんなジンに声をかけるよりも早く、よく通る透明感のある声が響いた。
「どうした?」
「あっ! ゲンナさんおかえりぃ」
ツバキがその声に振り返り明るく迎えると、ゲンナは軽く笑んで言った。
「ん。ところでジン。幼女に乱暴を働こうとしていたように見えたが」
「するか!」
ジンは勢いよく立ち上がる。
ゲンナは無表情で、
「何、つまらぬ冗談だ、いちいちムキになるなよ」
「お前の冗談はツバキの冗談以上に冗談に聞こえないんだよ」
「ジンさん、冗談いっぱい言ったネ」
ツバキがそう言うとジンは「はあ〜」と、深く長いため息をついた。
「ところでゲンナさん、宝石売れたか?」
ツバキはジンのことなどすぐに念頭からはずしてそう聞いた。ゲンナは笑顔で答えた。
「ああ。上得意様は今回も言い値で買い取ってくれたよ、ホラ報酬だ」
「うわあ。重いネ、いくら入ってるかナぁ?」
ツバキは麻の縛り袋に入った貨幣を受け取る。
ジンは報酬と引き換えに少女から預かった手紙をゲンナに差し出した。手紙を受け取ったゲンナは眉間にしわを寄せて聞いた。
「何だ?」
「アイシルからだよ」
「何? 会ったのか、アイシルに」
ゲンナの目が少し見開かれた。ジンは頭を振って答えた。
「いや、さっきの少女がそのお使いだよ」
それを聞いてゲンナは残念そうな表情になり言った。
「そうか」
ゲンナは、さっそく手紙の中を確認する。ツバキはその手元を覗き込んで問うた。
「なんて書いてあル? ゲンナさん」
こくりと頷いたゲンナは暫く黙読した後、ゆっくりと朗読しだした。
「僕は五日後、淡海島《あわうみしま》の『妖魔祈祷書《ようまきとうしょ》』を戴くことに決めました。また会えるといいねお姉ちゃん。あなたの可愛い弟アイシルより」
【親子三代】
「どういうつもりだい? エイリー・チェスター警部補」
「辞表届け」と書かれた封筒が、ぽつんと置かれてある重厚な机の前に座り、そう問いかけたのは一人の白髪紳士。
「辞めさせて頂きたい」
チェスター警部補は真剣な眼差しでたったそれだけのことを言った。
白髪の紳士は彼の上司で捜査課の課長である。課長は深く考え込み言う。
「なるほど、君は一度言い出したら聞かない男だ。色々と考えもしただろう、だが、どうする? ここで君が辞めて『怪盗特別対策本部』の指揮は誰が執る?」
チェスター警部補は確かにもう色々と考えた後なのであろう、課長の質問にも淀みなく答えた。
「ルブルエン君に任せてやってください。彼は若いですがいい刑事です」
ルブルエンとは彼の相棒の青年刑事のことだ。
それを聞いて課長は深いため息を吐いた。
「はあ、私はわたしの上司でもあった君の祖父も、同僚であった君の父親もよく知っているがね、まあ、よく似ているよ。その当時の怪盗たちに悩まされていた姿なんて、似すぎて、ああ、もう因縁かとも思うよ。……ねえ君、まさか、あの忌々しき怪盗どもを野放しにするつもりかい?」
「まさか、辞めても私は私のやり方で奴らを追うつもりですよ。まあ、今後は私立探偵とでも名乗ってみましょうか」
そう言うチェスター警部補の言葉を聞いて、課長はまた、ため息を吐いた。だが、今度は「やれやれ」とでも言っているかのようなため息であった。
課長は辞表届けを手に立ち上がり、チェスター警部補の肩を叩いた。
「まあ、これは一時預かっておくよ」
そう言って、課長は辞表届けを懐にしまい、また口を開く。
「君に今必要なのは休暇だよ、ゆっくり羽を休めたらまた戻ってくるといい」
「有難いお言葉ですが、決して待たないでいただいたい」
堅苦しいその物言いには、強い決意がこもっているようだった。
チェスター警部補は一礼し課長室を後にした。
***
モルタルで造られた建造物を出て、階段を下り、辻馬車を呼び止めた時、背後から軽やかな足音と、警部補を呼びかける声が聞こえた。
「チェスターさん!」
声にチェスター警部補が振り返ると、部下であり相棒でもあったあの青年刑事が情けない顔をしてこちらに向かって駆けてくる途中であった。
とうとう、そばまでやってきたルブルエン刑事は、よほど慌てていたのか呼吸が乱れていた。
「チェスターさん、嘘ですよね? 辞めるだなんて」
「必要のない嘘をつくつもりはない」
チェスター警部補がそう言うと、ルブルエン刑事は捨てられた子犬のような顔をした。
「じゃあ、本当に……?」
「ああ。私はもう行くぞ」
そっけなく背を向けて、馬車に乗りかけたチェスター警部補を、青年刑事は再び呼び止めた。
「待ってください! じゃあ、どうするんですか! あの怪盗たちは!」
警部補は振り返って言った。
「勿論捕まえてやるさ。だが、これは正義のためではない、三代に渡り怪盗どもに馬鹿にされ続けてきたチェスター家の意地と誇りのためだ」
青年は、食い下がらない。
「それでも! 目的は同じですよ、一緒に戦いましょう。ねえ、隣国『パリージア』の第二王女が我が『ウェーリズ』国の某有力貴族に嫁ぐじゃないですか? その嫁入り道具や莫大な持参金が汽車で運ばれることになっているでしょう? きっと、アイシルもゲンナも次はそれを狙いに来ますよ!」
警部補は軽く頷いた。
「ああ、署内ではその意見で一致しているらしいな? だが、おそらく予告状は届かない。まあ、届いてから行動をしていたのでは遅いのだがな。だから、今回の先を読んでの動きは正しいさ」
「じゃあ」
ルブルエン刑事は期待するような顔をした。だが、チェスター警部補は笑顔も見せずにサッと馬車に乗り込み、珍しく饒舌に語った。
「気づいていないだろうが、あいつらはただのお宝には興味はない。狙うのはいつも何かしら力を秘めているとの謂れがあるものばかりだ。だから、私はそういった物の在りかを調べ、その周囲を調査することでヤツラの動きを先に掴もうと思うのだ。それは砂漠で砂金を探し当てようとするようなものだから警察にいては出来ないことだよ、ルブルエン君。まあ、予告状が届いたときには連絡してくれ、そのときは私立探偵として駆けつけるよ。出してくれ!」
チェスター警部補の掛け声で馬車は動き出す。
ウェーリズの首都『ノンド』の雑踏に消えていく馬車を、ルブルエン刑事はいつまでも心細げに見送っていた。
【霧の湖岸】
空は薄く曇っていた。
目の前に広がる湖は、海かと見紛うほどの大きな湖で、名前は『淡海《あわうみ》』である。
近くに葦原があるその湖岸で、ツバキは眉間にしわを寄せ一人たたずんでいた。
「なぜ誰もいない?」
ツバキの声には、あからさまに動揺が現れている。
「確かにゲンナさん。三日後、朝十時ここに集合って言った……よネ?」
不安げにキョロキョロと辺りを見回しているツバキの背後から、ふいに声が聞こえた。
「ああ、言ったよ」
その声に、ツバキが勢いよく振り向くと、ゲンナが微笑を浮かべて立っていた。ツバキは「ほっ」と息をつく。
「よかったぁ、ゲンナさん。ツバキ集合場所間違えたかと」
そんなツバキを見て、ゲンナは微笑み桟橋の向こうを指差した。
「ホラ見ろツバキ」
言われてツバキが、ゲンナの指の先を追うと、透明度の高い湖の真ん中に、ぽつんと一つ浮かぶ島が見えた。一見して緑の乏しい島である。
「アレが淡海島だ」
と、ゲンナが言った。
「おお! 思ったより大きいネ」
「周囲約四里。ところで、ジンはまだ来てないのか?」
ゲンナの問いかけにツバキは、コクリと頷いた。
「うん。まだヨ。……ジンさん遅れるの珍し。もう来ないかもしれないヨ?」
「いや、それはない。ジンは来る」
何故かゲンナはそう断言した。
そんなゲンナを、ツバキは物問いたげにジッと見つめる。
ゲンナがそれに気づいた。
「何だ?」
そう問われて、ツバキは少し考える素振りをした後、意を決したかのようにキッとゲンナを見つめて聞いた。
「ゲンナさん。ジンさんは弟殺そうとしてル。のに何で、一緒に行動できル?」
ゲンナは一瞬、悲しみの表情なのか、苦痛の表情なのかよく分からない不思議な顔をした。
ゲンナはツバキから淡海島へと視線を移し、静かな声で言った。
「アイシルよりも先に手に入れなければならない物がある。だから、ジンの労力が必要なのだ」
ゲンナの表情と眼差しと声、それからそのセリフに、ツバキはジリジリとした不安を覚えた。
「それって、利用してるって、こと……?」
そう聞いた時、ツバキの耳に土を踏む音と聞きなれた声が聞こえた。
「霧が出てきたな」
「うわっ! ジンさん! キャッ!」
驚き振り返ったツバキは、動揺し、大げさにすっ転んだ。
それを見て、ジンは心配と怪訝の混ざった顔をし、言った。
「おおい、大丈夫か? てか、驚きすぎだろ。ツバキ」
ゲンナはツバキに手を貸してやりながら、ジンに向かって言う。
「遅かったな。もう、行くぞ、手漕ぎボートしか用意できなかったが」
「ええ! あんな所まで手漕カ!」
ツバキは尻の泥をはたきながら、無理だと言わんばかりに首を左右に振った。
桟橋には、ゲンナが用意したという木製の手こぎボートが一艘あるだけ。
ゲンナは淡々とした口調で言い放つ。
「ざっと、二キロだ。たいした距離ではない」
「さっすが、女怪盗ゲンナ」
感心した様子で言うジンに、ゲンナはさも当たり前のように言った。
「お前が漕ぐのだぞ。ジン」
「何! だからか? たいした距離じゃないとか言ったのは」
驚き呆れるジンに、ツバキも当たり前のように言う。
「ジンさん男だろ?」
ジンは諦め顔で遠くを見遣る。
「分が悪いな」
女が二人に男一人だと、自然、力関係の天秤は女たちのほうへと傾くものだ。
気がつくと、霧はますます濃くなっている。
と、突然、場にそぐわぬ少年の特徴ある声が響いた。
「んふふ。楽しそうだね。お姉ちゃん」
皆はハッとして、一斉に声のしたほうへと視線を向けた。
どこから現れて、いつからいたのだろうか? 桟橋の上で黒く大きなマントを風にはためかせたアイシルが不適に笑んでいた。
***
「アイシル!」
ジンはアイシルの姿を見るやいなや、条件反射のように抜刀し突進する。
だが、どこからともなく現れた色白の男が、その行く手を阻むようにジンの前に立ちはだかった。
体にフィットした上下一続きの、茶色い皮製の服を着ているその男は、細面で鋭い目つきをしていて、よく見るとまだ若いようだ。もしかしたらジンと同じ年か、いや、それよりも下かもしれない。
「ちっ! 誰だ? どけ!」
ジンは剣先で男を追い払うようなしぐさをした。
細面の男は動じることもなく、右手を前にさっと突き出した。すると、突然に湖が唸り、竜のような水柱が立つ。魔術だ。
魔術で作られた水柱は、形を変え、生きているようにうねりながら、勢いよくジンに向かって来た。
「なっ!」
驚き、慌てて飛び退いたジンの足もとで爆発した水柱は、桟橋を粉々にし、ジンを爆風で吹き飛ばす。
「うわあ!」
「くっ、あははははっ……ああ、おかしい。じゃあ、お姉ちゃん淡海島でね」
そう言ってアイシルは自らで用意した蒸気艇に飛び乗った。遠ざかるアイシルの笑い声と、蒸気艇の機械音が湿った湖岸にこだまする。
「くそ!」
屈辱と怒りで濡鼠のジンは、アイシルを睨みつけたまま強かに地を叩いた。
ゲンナは、アイシルの隣に立つ色白の男から目を離さずに呟く。
「あいつが、噂の魔術師か?」
「ずるいヨ! 蒸気艇!」
ツバキだけは緊張感のない声で、緊張感のないセリフをはいた。
「ああ……悪かったな。手漕ぎで」
言いながらゲンナが、がっくりと肩を落とした。
【淡海島】
淡海島に上陸した三人は薄雲のかかる空の下、大小さまざまな灰色の石たちがゴロゴロとしている涸れた川原を歩いていた。
「時間、かかったから、おなか空いたネ〜」
怪盗は体力が命とはいえ、さすがに疲れ果てているジンの前を、軽やかな足取りで歩きながら、ツバキがのんきな口調でそう言った。
「責めるんだったら、手漕ぎボートを用意したゲンナを責めろよ」
ジンがそう言うと、やはりその前方を歩いていたゲンナが、少しだけ振り返って言った。
「過ぎたことをとやかく言うな、器が小さいぞ。ジン」
小さいだの、過ぎたことだの、ゲンナはジンには容赦がない。
ここで強く出てもおそらく、女二人に責められるだけだと、そう悟ったのかジンは、軽く反論しながらも情に訴える。
「ばかやろう。過ぎてねえよ、今現在、死にそうなくらいヘトヘトなんだよ。筋肉が悲鳴を上げてるんだよ。俺、もう泣くぞ?」
「あっ! ツバキね、この島のこと少し調べてきたヨ」
「おい、キレイに話、変えてんじゃねえよ」
ジンは悲しさのあまりか、脱力したツッコミをいれた。
ツバキはもう、他のことが考えられないらしく「ふんふん」と空返事をして、相変わらずの片言で調査報告をする。
「あのね、この島、もともとは無人。でも、ある高僧が、夢に出てきた聖人のお告げに従って、ここに小さな修道院、建てたヨ。ここ、交通が不便なトコ。でも、たくさん、たくさん奇蹟起きた。貴族も王族も、ここの修道院、重視するようになったネ。それで、いつの間にか修道院大きくなったヨ。けど、何故か突然閉鎖になった。修道院の人たちの行方、誰も知らない。でも、噂。修道院で、前代未聞のスキャンダル起きたって。そして、誰もこの島、寄り付かなくなった。昔々のお話ネ」
「よく調べたじゃないか、ツバキ」
ゲンナにそう褒められて、ツバキは喜色満面になった、だがジンが「有名な話だけれどもな」とそう言うと、すぐに頬を膨らました。
「んもう。どうして、そうゆこと言うかネ。ジンさんはぁ」
ジンは先ほどの仕返しなのか、サラリと話題を変えた。
「で、今回は、どんな作戦で行くんだ? ゲンナ」
「ああ」
返事をしてゲンナは視線を上げた。そしてずっと遠くを指差して言う。
「あれだ、あれがうわさの修道院だ」
ゲンナが言うように、枯れ木の森の向こうの一段高くなった灰色の土地に、古めかしく重厚な石造の修道院が、うす曇りの空に溶け込んで異様な雰囲気を放ち、堂々と建っていた。
「うわぁ。果てしなく不気味ネ」
「同感だな」
ジンがツバキに同意して頷いた。ゲンナは言う。
「今は修道院と言うのは正しくないのだ。アルツハイネス元公爵邸だな」
「アル……ん?」
ツバキが可愛く首をかしげると、ジンが説明を加えた。
「アルツハイネス。爵位を売って、あの修道院で隠遁する、いわゆる変わり者のジイさんだ」
ゲンナが付け加える。
「ジンの言うとおり。元公爵は、変わり者でな。その上、厭世家で人嫌いだ」
「ツバキと正反対ネ」
ゲンナは軽く頷いた。
「そう。ツバキと正反対だから厄介だ。使用人もたった三人だけだと聞いた」
「三人。ちょうどいいネ。入れ替わるか?」
「いや、今回は、趣向を変えよう」
そう言って、ゲンナがジンとツバキに手渡したものは、黒い小さな手帳だった。
ジンは、手帳を開け言う。
「警察手帳か」
頷いたゲンナは「勿論、偽者だがな」と、そう言って愉快そうに笑った。
***
威圧感がある青銅の大きな扉。
これがこの元修道院の入り口だ。
ゲンナは躊躇もせずにノッカーを叩いた。
暫しして、重い扉から出てきたアルツハイネス邸の年老いた執事は、差し出された警察手帳を見て、何の疑いも抱かずに怪しい装いのゲンナたち一行を邸へと招きいれたのだった。