【アルツハイネス】
冷たい灰色の石壁が、まるで生き物を拒絶しているようだ。
このアルツハイネス邸には電気さえも引かれておらず、温かいはずの蝋燭の明かりでさえ、館の薄気味悪さを増すための努力をしていた。
ゲンナは、懐から偽の犯行予告状を取り出した。
「これが警察に届いた、アイシルからの犯行予告状です」
実際、ゲンナとアイシルが警察に直接犯行予告状を出すことなどは稀なことで、いつもは宝の持ち主にだけに出している。それを、予告状の受取人が一大事とばかりに警察に届け出るのが常であった。
が、それをよく知るはずの当の本人は堂々と法螺を吹いた。
アルツハイネス元公爵は、ゲンナから手渡された小さなカードに視線を落とした。
「なるほど。確かに、我が家の『妖魔祈祷書』を奪いに来ると書いてありますな。……タキモリ、あれを刑事さんに見せてやってくれ」
タキモリと呼ばれた老使用人は首肯し、ゆっくりとした動作で部屋を出て行った。
元公爵は薄ら寒い部屋の暖炉の前で安楽椅子に腰を掛け、炯炯たる眼光でゲンナたちを観察し始めた。
顔中に深いしわが刻まれた、いかにも頑固そうな顔の老人は、隠遁生活を送っているにもかかわらず、老人特有の虚ろな雰囲気を少しも纏ってはいない。
「今の警察は刀を携帯させるのですかな?」
ゆったりとした、だが、老いを感じさせない朗々とした声でアルツハイネス公は尋ねた。
ゲンナは元公爵を真っ直ぐに見つめ返す。
「いえ、私と、この男は剣術が得意でしてね。アイシルを相手するときには帯剣を許可されております」
ジンがゲンナの言葉を引き取る。
「それほど危険な男なのですよ、アイシルは」
「なるほど、それなのにたった三人で来られたのはどういう訳ですかな?」
アルツハイネス公は目の奥をかすかに光らせていた。それはまるでゲンナたちを疑い、且つ試そうとしているようであった。
それに気がついたゲンナは逆に微笑んでみせ、アルツハイネス元公爵が厭世家で人嫌いであると知っているからこそのハッタリをかます。
「もし、アルツハイネス元公爵。あなたがそれをお望みならば、いくらでも警備の人員を増やさせてもらいますがね」
案の定、元公爵は眉をひそめて頭を振った。
「ああ、それだけは勘弁して欲しい。私は、ここによそ者が足を踏み入れるのを好まないのですよ。可能ならば最小限の人数で事を解決していただきたい」
ゲンナは同意するように微笑み、軽く頷いた。
その時、やはり、ゆっくりとした動作で使用人タキモリは手に一葉の紙切れを持ち部屋へと戻ってきた。
「持ってまいりました」
ゲンナが使用人タキモリから紙切れを受け取ると、アルツハイネス元公爵が「それは、我が家に昨日舞い込んだ手紙ですよ」と、言った。
その紙切れにはこのようなことが書かれてある。
――明後日。正午。妖魔祈祷書を戴きに参ります。
怪盗アイシル――
「初めは馬鹿げたことだと思っていましたがね刑事さん。あなた方がここへ来られた事を持って確信しましたよ。その犯行予告状は残念ながら本物であると」
もうすっかり、ゲンナたちを警察のものだと信じきっているらしい元公爵の言葉に、ゲンナはもっともらしく頷いた。
「そうです、アルツハイネス元公爵。怪盗アイシルは冗談を好みません。奪うと決めたら必ず奪いに来るのです」
アルツハイネス元公爵は、笑い慣れていなさそうな、ぎこちない笑みを浮かべた。
「その元公爵というのは、やめていただきたいですな。堅苦しくて適わんのです」
「では、アルツハイネス氏。『妖魔祈祷書』と言うのは本当にここにあるのですか?」
ゲンナの当たり前の問いかけに、元公爵は何故か黙して答えない。
「では、質問を変えましょう。『妖魔祈祷書』とは一体、何なのです? いや、どういった謂れのあるものなのですか?」
アルツハイネス氏は、その問いを聞き、何故か皮肉混じりの笑みを見せた。
【妖魔祈祷書】
「刑事さん、あなたはそれをご存知のはずだ。そうですね? だが、知っていてあえて私の口から話させようと言うのでしょ? いいでしょう。話をしましょう」
アルツハイネス公は、何度か大げさに頷いてみせ、話を始めた。
「この修道院を開いた高僧は聖人の声を聞き、生涯をかけて一冊の祈祷書を書いたといいます。それを読んだ者は不思議の力を手に入れ、ありとあらゆる知識を得ることが出来たというのです。
だが、その力があまりも強力すぎたため、それはいつしか悪魔の力を秘めたる祈祷書だと噂されるようになってしまいました。それが、今で言う『妖魔祈祷書』です。
ああ、噂とは恐ろしいものだ、そのうちにこの修道院の者は悪魔を崇拝しているという噂さえ立ち、ついに修道士たちは捕らえられて他の修道院へと送られていったのです。
だが当時この修道院の長をし、祈祷書を管理していた司祭がその祈祷書と共に忽然と姿を消したのですよ。
その謎に包まれた出来事は、一時期、世間の話題の的となりましたが、時の流れに身をゆだねた人たちは次々に起こる出来事と多忙により、すっかりこの物語のことを忘れ去ってしまいました。
その為、私が生まれた頃には誰もその話題をするものはいなくなったのですがね、私はある日、ふいにその物語を耳にする機会に恵まれたのです。
ああ、それ以来私の頭の片隅から『妖魔祈祷書』のことが消えてなくなるようなことはなかったのです。
そして時は満ちたのでしょ。私は念願かなって、この修道院を手にすることが出来ました。
私は探しましたよ、当時の警察が調べつくしたであろうこの修道院内を。
何を? 勿論、『妖魔祈祷書』を。そして同時に消えた修道院長を。
執念でしょう。ついに私は見つけたのです!
そうです、彼は消えてなどいなかったのです。彼はここにいました。隠された地下室で、祈祷書を確と胸に抱き、永遠の眠りについていた修道院長を、私は見つけたのです!」
長々と語っていた元公爵は、ここでかすかに笑った。
「何故、私がそれを知りえたか、何故、隠された祈祷書の謂れを知りえたか。不思議にお思いでしょう刑事さん。私はね、信じてもらえないかもしれないが、過去が見えるのですよ」
過去が見える。その言葉にゲンナは一瞬だけ表情を引き締めた。
ジンも眉間に皺を寄せ険しい顔つきになっていた。ジンのその顔は、怒りのためとも、嫌悪感のためとも見て取れた。
アルツハイネス公は二人のその反応が、己の過去を見られているかもしれない不愉快さから来る顔なのだと思ったようで、こう付け加えた。
「ご安心なさい。私には、あなた方の過去までは見えはしない。私が見えるのは、物質に宿った人の思念や、その残滓。それもごく偶にだ」
ゲンナは頷き言う。
「分かりましたアルツハイネス氏。では、肝心の『妖魔祈祷書』を見せていただけますか?」
アルツハイネス公は頭を振った。
「確かにあれはここにある。だが、この広い元修道院のどこにあるのか、それは私しか知らない。そして、そう易々と見つけ出せるような所にはない、だからそのままにしておくのが一番いい」
まるで、『妖魔祈祷書』を人前にさらしたくないような、秘密にして隠しておきたいとでも言うようなセリフだった。
ゲンナは、少し困った顔を作って見せてこう言った。
「それでは警備の仕様が無いではありませんか」
「警備の必要はないと、言っているのです。いかに誰であろうと、アレを見つけるためには、この屋敷中を数日探し回らねばならないでしょうな。アイシルが諦めて立ち去るが早いか、あなた方に捕まえるが早いか……」
やはりアルツハイネス公は『妖魔祈祷書』を誰の目にも触れさせたくないようだ。
だがそれでは困るのだった。
「あなたはアイシルを甘く見すぎています。アイシルを相手するのに我々たった三人では少なすぎるといても良いでしょう。この屋敷は広く四方を隙無く警備することはまず不可能です。そして、進入されたが最後。彼は獲物を手に入れるためには手段を選ばないのですよ」
「手段を?」
アルツハイネス公の顔色が変わった。
ゲンナは神妙な面持ちで深く頷き、慎重に言った。
「必要とあらば、あなたを殺してでも、です」
不気味な静けさが満ちる。聞こえてくるのは暖炉の薪が燃える音だけ。
アルツハイネス元公爵は、言った。
「私には、あの祈祷書を書き上げた高僧の姿が見えるのです。あれは悪魔の祈祷書などでは断じてない。聖人の声を聞き真摯に書き上げられたものだ。だが、使いようによっては、悪に染まるものかも知れませんな。だからこそ私は、あの祈祷書をなんとしてでも悪人の手に渡るのを阻止せねばならない。それが見える私の使命だと思うのだよ」
そしてアルツハイネス公は深く頷き言葉を続けた。
「分かりました、刑事さん。予告の明日正午までに、『妖魔祈祷書』を、あなた方の前に、この元修道院の静謐な礼拝堂にお持ちいたしましょう。そのかわり必ず死守してくださいよ」
ゲンナは恭しく頷いた。
「勿論、お任せください」
【過去と聖なる王冠】
この島で採取されるごつごつとした灰色の石を隙なく積み上げ造り上げられたこの元修道院は、簡素だが威圧感があり、また、競いながら絡みつきながら壁を這う色褪せた蔦が黙して建物の歴史を語っているようだった。
ツバキはゲンナとジンと共にアルツハイネス邸のぐるりを散策している。
邸の裏手は切り立った崖になっていて、その下は勿論、今は静かな淡海。邸の右手側には白く立派な礼拝堂が建っていた。邸とその礼拝堂は廊下で繋がっていて、外に出ずとも行き来可能となっている。
「すごいヨ。あのおじいさん、過去が見えるって言ってたヨ」
ツバキに話しかけられたゲンナは、上下を確認しながらアイシルが進入しそうな場所を探していた。
ゲンナが話を聞いていないのでツバキは、ジンに話題を振った。
「ねえ、ジンさん。びっくりしたネ」
「バカバカしい」
ジンは、はき捨てるように言って歩き出す。
ジンがアイシルのこと以外で、こういった態度をとるのは珍しいことだった。ツバキは心配気にその背中に声をかける。
「どこ行くネ。ジンさん」
「アイシルは、過去が見えるのだ」
ゲンナが唐突に言った。
「ほえ?」
ツバキが振り向くと、ゲンナは背中を向けたままだった。ジンの姿を確認すると、すでにその背中は遠ざかっている。
「あの子は、過去が見えるのだ」
ゲンナは、もう一度繰り返した。少し切なそうな顔をしながら。
そのゲンナの表情につられるようにツバキも悲しそうな顔をした。。
ツバキが問うと、ゲンナは、ゆっくりと振り向き、こくりと頷いた。
「ああ。でも、ごめん。私の口からは言えないのだ」
ゲンナの口から言えないことを無理に聞き出すわけにはいかなかった。
ジンとアイシル、そしてゲンナだけが知る彼らを縛る過去。
「それを聞き出すことが出来ないにしても、ゲンナさんのことがもっと知りたいヨ、ツバキ…。ゲンナさんと知り合って、まだ一年弱だけど、少しずつでも知りたいヨ」
聞こえないように独り言を言っていたツバキに、察しのいいゲンナは相変わらず幼子を相手しているような調子で声をかけてきた。
「私のことなら何でも聞いてくれて構わないぞ」
こういうところがゲンナのカッコいいところだ。
ツバキはデリカシーのないことを訊いて嫌われないようにと思ったのか、言葉を選びながら、おどおどと質問をした。
「じゃあゲンナさんがこの島来る前に言っていた、アイシルより先に手に入れたいものって何カ?」
ゲンナは間をおかず答えた。
「聖なる王冠だ」
「王冠?」
ツバキは首をかしげる。
ゲンナは深く頷き、ゆっくりと瞳を閉じ語りだした。
「ある日、アイシルが私の前から突然に姿を消した。たった一枚の手紙を残して……。 そこにはこんなことが書いていたのだ。
――聖なる王冠を探すたびに出ます。
アイシル――
私はハッとしたよ。
聖なる王冠それは、ジイ様の日記にも書かれていた知る人ぞ知る伝説の宝物だ。
ジイ様も見たことが無くジイ様が生涯をかけて探していたもの。
るものなのだ」
「ゲンナさんは、神々の知恵と力が欲しいのカ?」
ツバキの問いにゲンナは頭を振って否定した。
「違う。私はそれを壊したいのだ」
「壊したい?」
「そうだ、もし聖なる王冠が、あの子の手に渡ってしまったならば今度こそ本当に私の手の届かないどこかに行ってしまいそうで、怖いのだ……」
ゲンナの声に、わずかな震えが混ざっていた。不安と悲しみを帯びた瞳でゲンナは己の両腕を強く抱きしめた。
ゲンナの弟への深い愛が伝染したかのように、ツバキも悲しそうな表情になった。
「じゃあ、こんなことしている場合じゃない! ゲンナさん。早く探しに行くヨ!」
ツバキが必死に腕を掴むとゲンナは、かすかな笑みを漏らして言った。
「ツバキ、聖なる王冠と言うのは本物の王冠のことではないのだよ」
「ほえ?」
ツバキは、ぽかんとした顔で首を傾げた。ツバキにはゲンナの言葉は難しかった。
ゲンナはそんなツバキに気づいて説明を加えた。
「王冠と言ってはいるが、その言葉は実際の王冠を指しているわけではない。王冠という言葉は『知恵と力の象徴』なんだよ。手にし望んだものに神々の知恵と力が与えられると言われているそれがどんなものなのか知られていないから、その効果を表して聖なる王冠と名づけられただけなんだ」
「そ……そうなのカ? なんかややこしいヨ」
やはりゲンナは難しいことを言った。
ゲンナは穏やかな口調で再びツバキに語りかける。
「読んだ者は不思議の力を手に入れありとあらゆる知識を得たと言われている妖魔祈祷書……。それこそ聖なる王冠である可能性は、高いと思わないか?」
ツバキは、「ん〜?」と声を出し考えた。
「よく分からないけど、ゲンナさんがそう考えるのなら、そうなのだとと思うヨ」
そう言ってツバキは大きく頷いた。
「うんうん。きっとそうネ、じゃあ、絶対アイシルに渡せないネ」
ゲンナは軽く首肯した後、また悲しそうな顔になり言った。
「ああ。それよりツバキ……。ジンのもとへ行ってやってくれないか?」
「でも……ジンのことも心配だけど……」
ツバキは目の前で寂しそうな顔をしている大好きなゲンナをおいて、ここから去ることに躊躇しているようだった。
離れ難そうにしているツバキの頬に、ゲンナはそっと手を触れる。
「ツバキは人の心を明るくさせる力を持っているからな……。今のジンにはツバキのような存在が必要だよ、きっと」
ツバキは頬がほんのりと桃色に染めた。
【尻尾】
チェスター警部補は、海かと見紛うほどの大きな湖を眺めていた。あまりに静かで大人しい水面、それが湖である証である。
警部補は……。そうだ辞表届けはいまだに受理されていないのだからまだ彼は警部補だ。
警部補はフロックコートのポケットから新聞紙の切抜きを取り出した。それは小さな三行広告の一文だった。
ちなみに三行広告とは、尋ね人や、どこにいるとも知れない人へのメッセージ、求人などを新聞社を仲介にし新聞紙面に載せた三行未満の広告のことだ。
警部補が持っている三行広告の切抜きにはこう書かれてある。
――『妖魔祈祷書』アナグラム解読協力者求む――
たくさんの記事に埋もれて見落としてしまいそうになるが彼はそれを見出した。
これはほんの数日前の新聞記事だから、もしかしたらアイシルやゲンナも目にしたかもしれない。
『妖魔祈祷書』今の子供はどうかは知らないが、少なくとも大人たちでこれの謂れを知らないものはいない。だが、すっかり忘れ去られた物語だった。
はずなのに……警部補は見つけてしまった。おそらくあの怪盗たちを追うために、あの怪盗たちと同じように目を凝らし耳を澄ませ、不思議な力を秘めた物を探していたおかげだろう。
この記事を見つけた瞬間にチェスター警部補の体には電流が走った。そして思わず「これだ!」と、叫んでいた。
そして彼は調べた。
『妖魔祈祷書』をめぐる話の舞台であった淡海島に唯一ある建造物、あの忌まわしい修道院の所有権は今、誰にあるのか。おそらくその人物が消えたはずの『妖魔祈祷書』の持ち主に違いないのだ。
アルツハイネス元公爵。彼が修道院の現在の主だそうだ。
警部補もアルツハイネスの名は知っていた。彼は厭世家で有名な老人だ。だから犯行予告状が彼の元に届いていても警察に届け出ることはないであろう。
チェスター警部補は湖岸を歩き背が低いあばら家が並ぶ一角へと来ていた。
実は、これら全てはボート屋だ。
湖岸の周囲にはいくつものボート屋があった。あまり裕福とはいえない人々がやっている家業ではあるが、大きな湖は迂回するよりも水上を通った方が長い時間を馬車に揺られ、お尻の痛い思いをしなくて済み、疲れも少ないなどのメリットがあるので利用客が多く、こういった商売もそれなりに確りと成り立っていた。
チェスター警部補は、この海のように大きな湖の湖岸にある数え切れないほどのボート屋全てに聞き込みに入るつもりだった。
貸しボート一日いくら 船頭付のボートどこそこの町までいくら、などと書かれたお粗末な板切れが立てかけられているその横に、木箱に腰掛けた小柄な髭面の男がいた。男の格好はずいぶんとみずぼらしい。
チェスター警部補は相変わらずの渋面のままで、その小柄な男に声をかけた。
「親父さん、商売の方はどうだい?」
小柄なボート屋の男は警部補の足元から頭のてっぺんまでを一通り確認して、にやりと笑った。
「ああ、商売の方はまずまずさ。税金がもっと軽くなりゃ、ましな生活が出来るようになるんだが。あんた警察のもんだろ? そうだろ、態度と喋り方で分かるよ。なあ、上のもんに何とか言ってくれよ」
この小柄な男にとって政治家と警察は同じであるようだ。
だが警部補は否定したりはしない。話をあわせること、これが聞き込みの常套手段でもあった。
「私は随分下っ端だからね、残念ながら、そうそう声は届かないんだ。ところで親父さん、ここ最近に変わった客が来なかったかい?」
変わった客とは勿論ゲンナとアイシルのことを指している。交通手段としてのボートを、おんな子供が借りに来ることなどめったにないだろうから、もし来ていたのならば変わった客として記憶しているに違いない。
だが、ボート屋は首を横に振った。
「いや。なんだい? 聞き込みかい? あんたには手柄を立ててもらって偉くなってもらって税金を軽くしてもらいたいんだが、ああ、そうだ、うちの客ではなかったが、この辺をタキシード姿の子供がうろついていたぞ。事件とは関係ないかも知れんが、あれは変わった光景だったな」
タキシード姿の子供。アイシルだ。警部補の瞳の奥がキラリと光った。
「親父さん。蒸気艇はあるかい?」
「ああ、古いし屋根はないが、確り動いてくれる青い船体のパラダイス号がな」
ボート屋は自慢げに語った。
「では、それを予約しておくよ」
そう言って警部補は一フィズ銀貨を一枚投げ渡し、「こ、こんなにかい?」と驚くボート屋の親父の声を背に聞きながら、その場を去っていった。
チェスター警部補は湖岸から離れ市街地を暫く歩く。
埃っぽく舗装がされていない道路には古びた木造の商店が立ち並んでいる。
背後から錆びた金属がこすれ合う音がした。手入れの行き届いていない荷馬車が大きく揺れながら警部補の横を駆け抜けた。砂埃が舞う。
警部補は咳払いをし、眉間にしわを寄せた。
この街はあまり裕福ではないが豊かな湖の幸のお陰でひもじくもない。そのせいか、さして刺激のない日々を送っている物静かな市民達は、どこかぼんやりとした表情をして歩いていた。
「んふふふ」
陰気な町を歩く警部補の喉の奥から知らずに笑いがこみ上げてくる。
元部下のルブルエン刑事に自ら宣言したように、警部補は本当に気になる事柄を片っ端からあたっていくことで怪盗たちの背後に忍び寄るつもりでいた。
それはおそらく気が遠くなるほどに時間がかかり、骨が折れるほど手のかかることに違いなかった。そうだ運が悪ければ一生仕事だ。
それでも警部補にはそれだけの覚悟があった。だが、こんなに早くも奴らの影にぶち当たるとは。
これはチェスター警部補本人も予想していないことだった。まったくもって嬉しい誤算である。
警部補は瞳を光らせ不適に笑む。
「捕まえたぞ、尻尾を」
チェスター警部補は不意に歩を止めてすぐ脇の、緑の木枠が付いたガラスの扉を覗き込んで押し開けた。そこは書店だった。
警部補は真っ直ぐカウンターに向かう。
「すみませんが、淡海島の詳細な地図はありませんか?」
これはどうしても必要だった。アイシルが既に淡海島に上陸しているのならば近付くときには慎重を期さねばならないのだから。
店番の若い男は少し驚いた顔をして言った。
「淡海島! あの不気味な島のことを聞かれたのは、ここ数日で三回目だよ」
【川原】
広がる空がいじけた色をしていれば、心はまた一層沈む。空の色は人の心に多大な影響を与えるものだ。
そういう意味ではこの晴れることのない島は精神衛生上よろしくないに違いない。住み続ければいつしか悪魔的な妄想に囚われえる者が現れても不思議はないだろう。
そんな島の武骨な岩石が転がる涸れた河川でジンはアイシルと睨み合っていた。
アイシルの隣にはあの陰気な雰囲気の魔術師もいる。
「珍しいじゃねぇか、わざわざお前が俺の前に現れるなんてな」
「ちょっと気になることが出来てね」
そう言ってアイシルは半眼でジンを見据えた。その目はジン本人と言うよりもジンの体を、いや、心を透かして見ようとしているようだ。
ジンは嫌悪感も露に叫んだ。
「ちっ! また『過去が見える』なんて、ふざけたことを言うつもりじゃネェだろうな! アイシル!」
【真実】
ツバキは涸れた川原を歩いていた。
「ジンさん、どこ行ったかネ」
この島はあの寂しい修道院と枯れ木に涸れた川しかないようで、まるで呼吸をやめ死んだ島である。
アルツハイネス公がいくら厭世家だからといっても、よくもこんな所に住む気になったものである。おそらくそれが変わり者だといわれる所以なのだろう。
ただ一人歩いているだけでふつふつと恐ろしさが涌いてくるようで、ツバキの表情は空と同じに曇っていた。
そんなツバキがふと前方に目をやると、
「あ! ジンさん! ……と」
見慣れた顔に安堵したツバキだったが、すぐにそれも不安に取って代わった。そこにアイシルがいたからだ。
ジンが長剣をスラリと抜き放ったのが見えた。ツバキは慌ててジンのもとへと駆けていく。
「ジンさん!」
呼ばれて振り返ったジンはひどく驚いた顔をしていた。
「ジンさん。けんかしたらダメよ。アイシルは、ゲンナさんの大事な弟ネ」
「ゲンナにとって大事だろうが、俺にとっては憎むべき相手なんだよ」
「どうしてヨ!」
「お前には関係ないだろ!」
よほどイライラしているの、ジンは珍しくツバキに対して怒鳴り声を上げた。
「くくく……。言ってやれよ、真実を」
愉快そうに言うアイシルをジンは鋭い眼で睨み付ける。
だがアイシルのほうは気にする様子も見せずに、むしろバカにしているような口調でこう言った。
「ふん。どうした? 結局お前も心のどこかで認めているから口に出せないんだろ? そうだろ? 人殺しの息子が!」
その不思議な違和感さえある人殺しと言う言葉。それはあまりにも劇的でツバキは軽い衝撃を受けた。
聞き間違えではないだろうかと思ったツバキは、恐る恐るその忌まわしい言葉を繰り返した。
「人、殺し?」
「違う!」
ややヒステリック気味な叫び声を上げたジンは、ぐっと拳を握り締めて、怒鳴り声に驚いていたツバキに向き直って言った。
「いいだろう! 話してやるよツバキ。俺がこいつを憎む理由を……」
ジンの真剣な声と表情につられてツバキは全身をこわばらせた。
***
静けさは不安や恐怖をあおる最大の演出だ。それを知っているのか空も木々も何も音を立てないでいる。
ツバキは知らずに震える腕を自分で抑えるように抱きしめた。ジンが途切れそうな声を懸命に絞り出しぽつりぽつりと語りだす。
「昔の話だ。
いや、まだ三年しか経っていないな。
俺は十四歳だった。
やさしくて明るい専業主婦の母に、穏やかで厳格な弁護士の父に育てられた俺は、両親を誇りに思っていた。
だから俺は幸せで。そしてそれは俺の中では当たり前に一生続くもので。終わることなど考えられないくて。勿論、わざわざ意識して考えることもなかった。
だけどある日、それは見事に砕けて消えてしまった。
母が寝室で息絶えていたんだ。
俺は見ていないがその首には太い指の痣があったらしい。母は絞殺されていたんだ。
葬式の日。絶望の淵にいた俺と父に対してアイシルは侮辱的な言葉を投げかけた。
――お前の母親を殺したのは、その男。お前の父親だよ――
父は正義感が強く清廉潔白な人なんだ。
その父に公衆の面前でそのようなことを言ったんだこいつは!
冗談にしてもタチが悪すぎる。
父は数日後、首を吊って自殺した。
アイシルのせいで村中の人々が噂をするようになったからだ。
愛する人を失い、絶望の淵にいたところへの心無い噂に父は、壊れてしまったんだ……」
苦痛に耐えるように辛い思い出を語ったジンの姿をじっと見ているとツバキも同じように胸が痛んでくるようだった。
「そんなこと……あったのカ……」
小さく頷いたジンがいつもとは違いひどく弱々しく見えてツバキはギュッと抱きしめてあげたいとさえ思った。
「バーカ」
アイシルが言葉同様に小バカにしたような口調でそう言い放った。
「何言うネ! アイシル!」
ジンが怒り出す前にツバキが怒りをあらわにした。アイシルは鼻で笑って見せた。
「ふん、バカにバカって言っただけだろ。て言うか、お前誰だ?」
カッとしたのかジンはアイシルを睨み付け、長刀を構えながら叫ぶ。
「だから俺は父の奪われた名誉を取り戻すためにお前を打った斬ってやると決めたんだ!」
熱く叫ぶジンをアイシルは下目で冷ややかに見遣った。
「はっ! だからお前も誰も彼もバカだって言うんだ。僕はいつも真実しか語ってない! なのに!」
アイシルは徐々に興奮した口調になっていった。
「お前の親父は噂のせいで死んだんじゃない! 罪の重さに耐えかねて死んだんだ! だいたいよく考えてみろよ! あの村で僕の言葉を信じる利口なやつは一人たりともいなかったじゃないか。しかも僕たち一家は素性もよく分からない新参者で、お前ら一家は土地の人間だ! それでもあの噂が広まったのには信じるに足る真実がそこにあったからだろ!」
「なんだと……!」
そう言ったジンの語調こそ強気だったが、顔には明らかな動揺の色が見えた。
また口を開きかけたアイシルは突然にピタリと動きを止め、ぼんやりとした瞳でうわ言のように語りだした。
「…………誰だ? そうだお前の家のお隣さんだ。若い画家の男。よく、お前の家を訪ねてきてたよな」
ジンは怪訝そうに聞く。
「それが、どうした?」
半眼のままアイシルは突然、声を張り上げた。
「ああ! 喜べ、そして僕に感謝しろ! お前の父親は気の狂った殺人鬼ではないぞ!」
言われてジンは眉をしかめた。
アイシルは続ける。
「お前の父親は色情狂の女、つまりお前の母親の浮気現場を見たせいで殺人に手を染めることになったんだ!」
ジンの体から力が抜けたのが見て取れた。
「なんだと……?」
アイシルはまだ言葉を続けている。
「ああ! 逃げていく! 浮気女と間男が……。だけどお前の母親は捕まって、謝りながら、絞首されて、無様な死に方だ……」
「やめろ!」
耐え切れずにジンは叫んだ。
口の端でわずかに笑みを浮かべていたアイシルは、ふと首をひねった。
「何でだろう……。お前を湖岸で見たときからチラついていた映像はこれか……? 何で当事者がいないのにこんな映像を……」
砂埃を含んだ乾いた風が駆け抜けた。
ぼんやりと突っ立っていたアイシルは、暫くしてニヤリと笑む。
「くくく……。そうか。そういうことか!」
カッと目を見開いたアイシルは指差し叫んだ。
「お前! 見ていたんじゃないか! 一部始終を!」
【ジンの結末】
「いくら僕のこの力が強くなったからと言っても記憶の媒介が無ければ何も見られないものな……。まったく忘れていたのか、しらばっくれていたのか知らないが、よくも僕を嘘吐き呼ばわりしたな」
鬼の首を取ったかのように攻め立てるアイシルをよそに、ジンはただ真っ青な顔で突っ立っていた。
「お前だけじゃない、昔から、どいつもこいつも、僕は確かに見えているのに!」
アイシルは恨みのこもった鋭い目で睨みつけジンを指差し言った。
「フン! バーカ! お前みたいなバカは、お姉ちゃんのそばに寄るな! そこの顔つきからしてバカな女! お前もだ!」
それだけ言うと清々したのかアイシルは踵を返し部下の魔術師に「帰るぞ」と、声をかけた。
魔術師は無言で首肯し後につき従う。二人は去っていった。
また、乾いた風が吹く。
呆然とするジンに、ツバキはそっと声をかけた。
「ジンさん……」
その声で我に返ったのか、ジンはゆっくりと瞼を閉じて長剣を鞘に収めた。
そして、搾り出すように「思い出した」と、言った。
「ジンさ……」
「なんで、俺はそれを忘れて……。ああ、よく聞くじゃないか。受けたショックが強すぎると、人は稀にその前後の記憶を無くすことがある。って、なあ……。ふっ……まさか、自分の身にそれが起こっていたなんて」
自嘲交じりに独りごつ、ジンの体が震えている。
ツバキはそんなジンの腕をとっさに抱きしめた。
「ジンさん!」
ジンの顔が苦痛に歪んむ。
「悪い、一人にしてくれ」
背を向け何かをこらえるような声でたったそれだけの言葉を残し、ジンはフラリフラリとその場を離れた。
「ジ……ジンさん!」
ジンはツバキの声に振り返ることも無かった。
遠くなっていく弱々しいジンの背中は追うことさえためらわせる。
ツバキはジワリとこみ上げてきた涙を拭った。
そして愁いの色を浮かべ泣き出しそうな様子の空を仰ぐ。
「ゲンナさん。ツバキ、ダメだヨ。ジンさんに元気あげられなかった……。役立たずネ……」