【過去の夢】
あまりに静かな夜。ゲンナはアルツハイネス公にあてがわれた部屋にある硬いベッドの上で、まどろみ始めていた。
やはりこの部屋にも窓がなく月明かりも差し込まない。暗闇はまるでべったりと張り付いているかのようだった。
暗すぎて部屋の広さも狭さも感じられない。窒息しそうだ。
だがゲンナはもう既に半ば夢の中にいた。
***
――お姉ちゃん
遠くでアイシルの声がする。
両親は、私が幼い頃からほとんど家にはおらず、弟アイシルとはずっと助け合って生きてきた。
どんなときも一緒、何があっても一緒。
そう、ずっと一緒だったのだ。
だからあの子がここにいないと、喪失感で窒息死してしまいそうだ。
――僕は、嘘なんて言っていないのに、みんなそれを知っているのに、知らないっていうんだ。僕が嘘を言っているんだって!
両親に連れられ移り住んだ緑豊かで長閑なあの町で、たった一人の大切な、無邪気な弟が泣きながらそう叫んでいる。そして「みんな嫌い」だって、悲しいことを言うから。
――大丈夫だ。お姉ちゃんは信じている。お前は嘘を言っていない。大丈夫。お姉ちゃんだけは味方だから
そう言って抱きしめた懐かしい町。
それは過去の夢。
それは随分昔だったようにも思う。
ある日、町でも有数の資産家の屋敷の金庫から多額の現金が盗まれた。嫌疑をかけられたのはその家の使用人の男。
警察がやってきてその使用人を連行しようとしているところに弟は偶々通りがかった。
弟は開け放たれた表玄関の影に隠れて様子を窺っているその家の一人息子の青年に気づいて、じっと観察した。
そしてアイシルは唐突に青年を指差しこう叫んだ。
――違うよ刑事さん。犯人はあの人だよ
青年は目を見開き真っ青になって怯えたような顔をした。青年に人々の視線が集まると彼は血相を変えてアイシルに詰め寄りこう言ったという。
――違う、違う! 何を言っているんだこのガキ!
アイシルはこのとき屋敷の主にも散々責められたらしい。
それだけではない、連行された使用人は何故か罪を認めたという。
そしてその使用人はほんの一年の服役後、同じ屋敷に再雇用されるのだ。
つまり全の罪はアイシルによってあばかれ、それに気づいた屋敷の主によって隠されたのだ。
真実が必ずしも正解ではない。
アイシルはそれに気づき、それに反発するように、その日以来人々の秘密をあばいていくようになった。
勿論、私は知らない、その言葉は出鱈目だ……と誰もがそれを否定する。
当然といえば当然かもしれない。秘密は知られたくないから秘密なのだから。
そして人々は、口にこそ出さないが、秘密をあばき、心を見透かすアイシルに恐怖するようになった。
恐怖が嫌悪感を生む。
アイシルは嘘つきと呼ばれ、避けられるようになってしまった。
正当なことを理不尽に否定され、あげく反対に責められることは、どれほど辛いことだろう。
腹立たしさもあろう、憤りもあろう、悔しさもあろう、勿論悲しみも。
その相手がたった一人であってもだ。
だがアイシルの周りは全てが敵だった。
そう、敵だ。それは敵だ。
アイシルは敵だらけの世界を憎み、人を嫌悪し、全てを変える力を手に入れたいと……。
そう望んだ……
【あと一時間】
吹き抜けの天井に入り組むアーチ型のリブ。
部屋中に白くぼんやりとした明かりが満ちているのは、十字型の大きく透明な採光窓から、この島の乏しい光が差込んでいるからだ。
それでも礼拝堂はどこも同じでひんやりと冷たい。
だがさすがに王侯貴族に一時重視されていた修道院にふさわしく広さは十分すぎるほどで、横幅は五十メートル、縦も百メートルはあるだろう。
ゲンナはそんな礼拝堂の女神像に見入っている。
正確には陶磁器製女神像の黒く大きな瞳に。
「これは本物か?」
「勿論本物です」
ゲンナの独り言に答える声に振り返ると、アルツハイネス公が桐の箱に入った一冊の書物を、大事そうに祭壇に置いたところだった。
「その瞳、本物の黒真珠。立派でしょう? 私がここにやって来たときにはすでにそこにあったのです。きっとここの修道院が最盛期のときの貴族か王族からの御下賜品でしょうな」
ゲンナの興味はもうすでに女神の瞳には無かった。
「それが、『妖魔祈祷書』ですか」
「ええ、その通り。刑事さん何度も言いますが必ず死守してくださいよ」
「勿論です」
返事をするゲンナの瞳はアルツハイネス公の手が置かれた『妖魔祈祷書』に注がれている。
それは特に変わった様子も無い古びた書物に見えた。表紙は深い緑色。タイトルなどは書いておらず、紙は黄ばみ、黴の匂いさえ漂っている。
「旦那様。この部屋はお寒うございます。ここにいては体の毒です。ささ、暖炉のあるお部屋に」
「よい!」
アルツハイネス公は老使用人の気遣いを言葉と手で制した。
「私はここでこの書物を守る」
アルツハイネス公は祭壇の隣にわざわざ設えた安楽椅子に腰掛けた。やはり、『妖魔祈祷書』に片手を置いたまま。
「では、せめて厚手のガウンとひざ掛けを用意いたしましょう」
扱いを心得ている老使用人は、やはりゆったりとした動作で邸へと続く奥の廊下へ消えていった。
ゲンナは懐中時計を取り出す。アイシルが予告した正午までは、あと一時間弱。
アルツハイネス公は誰も信じられない性分なのか、ゲンナから目を離さないでいる。
ふと振り返ると、ツバキが礼拝堂の長椅子に、しょんぼりとした様子で俯き座っている。ゲンナは足音を響かせ、そんなツバキの前に立ち、そっと声をかける。
「どうした? ツバキ。昨日、よく眠れなかったのか?」
ツバキは勢いよく頭を振った。
ゲンナは少し考えるそぶりを見せてから、また問う。
「風呂がなかったからか?」
ツバキは、やはり頭を振る。
「それもあるけど、違うネ」
そして今にも消え入りそうな声で、ぽつりと言った。
「ジンさん。辛そうだった」
ジンのことで心を痛めている様子のツバキをゲンナはじっと見つめて言った。
「あいつのことは、そんなに心配する必要はない。本来は怒りも悩みも長持ちしないタイプだからな」
「でもジンさん……。アレから戻ってこない……」
ツバキは涙声だ。
「ジンは思い出したのだろう? もう私の傍にいる理由がなくなったのだ」
ゲンナは少し冷たく言い放った。
「でも! それでいいのカ? ジンさん仲間と違った?」
「アレがいたほうが仕事をしやすいのは確かだ。だがジンにとって私が必要ではなくなったのだ。仕方が無い」
「違うヨ、違う。ジンさんとツバキ、ゲンナさんの仲間!」
ツバキはおもむろに立ち上がる。
「探してくル!」
ゲンナは止めはせず走り去るツバキの細い背中を、ちょっとだけ困った顔をしながら見つめていた。
【ねぐら】
踏みつけた小枝が乾いた音を立てて割れた。
チェスター警部補はリヴォルバーを手に注意深く辺りを見回す。
今彼がいるのはアルツハイネス邸のすぐ側にある枯れ木の森の中である。もしゲンナかアイシルがこの島にいるのなら、もう既にアルツハイネス邸に潜入しているか、邸の近くに潜んでいるに違いない。だから警部補は枯れ木の森を探っているのだ。
事は慎重に運ばねばならないのだが歩くたびに落ちている枯れ枝がパキパキと音を立ててるので警部補は渋面を作っていた。
「まったく、なんて不気味な島だ」
警部補はため息混じりに呟いた。
生き物の気配がまったく感じられない。
アルツハイネス元公爵が、わざわざこんなところに居を構えるにはここでなくてはならない、よほどの理由があるのだろうか? ――自分ならどんな理由があろうともご免だ。と、チェスター警部補は思った。
不意にわずかだが森の開けた場所に出た。
目前には高さが優に五メートルはありそうな灰色の岩盤がずっしりと身を構えている。そしてその前に小さなテントが張られていた。
「ふっ……大胆なことだ」
チェスター警部補は思わず笑みを漏らした。
「……アイシルだな」
警部補がそう思うには訳があった。
二人の怪盗の犯行はいつも大胆である。だがゲンナの犯行には大胆さの中にも繊細さがある。勿論、アイシルの犯行も少し前までは繊細さがあったが、魔術師を仲間に入れてからは、どんな状況でも逃げ出せるという余裕からか、やりようがやや杜撰になっているように警部補は感じていた。
だから、目の前のテントはアイシルの物だ。
警部補は銃を内ポケットにしまいながら、また笑みを漏らした。
「無人に近い島だからとはいえ、油断しすぎだ」
***
愉快そうな笑い声を立てながら、アイシルがテントから這い出てきた。
「あははははは」
その後を付き従っている青白い顔の男は怪訝な顔をしている。あれはあの時の、空の上で出会った黒ずくめの男だ。と、いうことに警部補は思い至る。やはりあれはアイシルの部下の魔術師だったのだ。
しかしこの西パフュノット大陸以外にも魔術師という者は存在しているのだろうか? などと、警部補が今はどうでもいいような事を考えていると、アイシルは軽やかにクルリと半回転して言った。
「ああ、また思い出してしまったよゲイム。ジンのバカのあの呆けた間抜け面を。あははは」
腹を抱えて笑い転げるさまは、まったく普通の子供である。
ゲイムと呼ばれた陰気な顔の魔術師は、あまりに小さな声で尋ねた。
「ゲンナの?」
「そう! お姉ちゃんの下僕の!」
高らかに宣言するようにそう言ったアイシルは、またクルリと半回転し右人差し指を突き上げ上機嫌に言った。
「さあ、もうすぐ時間だ。行こう!」
大きな岩盤の上から少し顔を出したチェスター警部補は、去っていく怪盗の背中を冷ややかに見つめていた。
ゲンナの名が出ていた。ゲンナもここにいるのだろうか。
ならばなおさら慎重に、アイシルを尾行せねばならない。
【もう一つの過去の夢】
――ジン。早く起きなさいね
耳に心地よい母の声が脳みそをくすぐる。
柔らかで清らかな朝日部屋にが差し込んでいる。母が窓を開けた音がした。
白いレースのカーテンが揺れる。優しく吹く風が庭のカモミールの甘い香りをこの部屋に運んできてくれる。
――ジン。今日も放課後に剣術道場に行くのか?
穏やかに微笑みながらゆったりとした口調でそう父が問う。
焼きたてのパンの幸せな匂いが漂っている食卓。白いお皿には香ばしく焼けたベーコンとプルプル揺れる目玉焼きの最強タッグが乗っている。
甘酸っぱい香りのオレンジジュースがグラスに注がれた
それは、あまりに幸福な過去(あの日)の夢。
忘れもしない十四歳の夏の初め。
父と同じ弁護士になるのもいいけれど、単純に剣を振り回すのが好きだから学校を卒業すれば首都のノンドへ行って兵士になろうと思っていた。あの頃。
その日の放課後俺はいつもとは違い、剣術道場には向かわずに家路についていた。
陽気がいいから学校ではしゃぎすぎたせいかもしれない。お腹がペコペコで、帰って母の手作りパンを食べてから道場へ行こうと思っていた。
いつもの通り扉を開ければ、いつもの優しい母の笑顔に迎えられると思っていた。それは疑うことすらバカバカしい日常の光景だったから。
それなのに。聞こえてきたのは怒声だった。いつも穏やかな父の聞いたこともないような怒声だった。
俺は声が聞こえてきた部屋へと駆けていった。そこは父と母の寝室。
巡り会わせというやつなのだろうか?
父はその日、いつもと違う行動をおこしていた。おそらく大事な書類を家の書斎に忘れてきたとかそんな単純なことなのだろう。
とにかく父は昼下がりに帰ってきた。
そして俺も。
母はいつも通り。そう、母にとっては多分いつも通りだったのだ。母は、いつも通り隣に住む青年画家を引っ張り込んでいた。
信じたくなかった。何もかも……
母が浮気をしていたことも、父が母を殺したことも。
俺は、でも全てを見てしまった。
だから、走り出した。
何事もなかったかのようにそのまま道場に行っていつも通り過ごした。心が記憶を封印したんだ。
そして封印したまま、日々をすごした。
ずっと心の奥にもやもやしたものを抱え込んだまま。
でも、思い出した。思い出してしまったんだ。
ああ、何だよそれ、もう、涙が出るやら、笑えてくるやら……。
【あと十五分】
「ジンさーん! ジンさんどこネ!」
ツバキはゴツゴツとした岩場を何度も転びそうになりながら大切な仲間の名前を懸命に呼び続ける。
「ジンさん、まさか帰っちゃったわけじゃないよネ?」
ツバキはその否定的な想像を打ち消すように強くかぶりを振った。
そしてこみ上げてくる涙を拭い、もう一度その名を呼ぼうと息を吸う。そのときツバキの視界に探し人の姿が移った。
「ああ! いた! ジンさん!」
ジンは大きな岩の上に寝転がり陰気な空を眺めていた。
嬉しさで瞳を輝かせながらツバキは駆け出す。
ツバキの気配に気づいた様子もないジンは突然立ち上がり、愉快そうに、だがどこか自嘲の混じった笑い声を上げた。
「ふっ……はははははは!」
「はあ!」
ツバキは一大事とばかりに慌てて駆け寄る。
「ジンさん! 落ち着くネ!」
「ん? ああ、ツバキか」
岩から飛び降りたジンは、やや引きつった笑顔を見せた。
「ジンさん……」
ジンはムシャクシャした様子で頭を掻いた。
「ああ。バカバカしい。…………どうにも俺は悩むのが性に合ってないらしい」
ツバキは首を傾げた。
「それ、いい事ネ」
「お前……」
呆れ顔でジンはいつものように長いため息をついた。
「はぁーーお前と話していると悩んでいる自分がバカみたいに思えるよな」
そう言ってジンは、憂いを含んだような空を眺めて言った。
「アイシルが、人を……世を恨むようになったのは、俺のせいでもあるんだよな」
「どうしてカ?」
ツバキが尋ねるとジンはまた歪んだ笑顔を見せた。
「あのことがあるまではアイシルとも仲がよかったんだ。きっと、俺はアイシルを傷つけた」
「それは! 仕方なかった、ジンさん悪くないネ……」
ツバキが懸命にそういうとジンは何故か脱力した笑みを見せた。
「いい子だな、ツバキは」
「まっ! ツバキ子供と違うヨ!」
憤慨するツバキを見て笑い声を立てたジンだったが、ふと、思い出したように真顔に戻って言った。
「あいつは、ゲンナは知っていたんだよな? 知っていて、俺を利用していたんだな?」
ツバキは「はっ」として懸命にそれを否定しようとする。
「ち、違うヨ! ゲンナさんは……」
だが言葉が続かない。
そうだ違わない、ゲンナは、確かにジンを利用していたのだから。
ジンはかすかに笑う。
「ふっ。別に本気で気づいてなかったわけじゃない。あいつはいつもアイシルを守っていたんだから……。それを知っていて、俺はゲンナと一緒にいた」
そしてジンは思い出を語りだす。
「そういえば、ゲンナと再会したのは去年のことだったな。
家族を亡くした後俺は家を出て、ウェーリズの兵舎で若手の兵士として日々黙々と鍛錬を積んでいたんだ。その俺をある日ゲンナが訪ねてきた。
そのとき俺は、ゲンナの顔を見るとアイシルへの押さえようもない怒りが湧き起こってくるのを感じたんだ。
そうだ、忘れようとしていたのに思い出してしまったんだ。俺はこんな風に生きているうちは何度もこの息苦しい怒りにさいなまれるのだと思うと、いてもたってもいられなくなったんだ。
復讐をしないと……そうしなければ俺は平穏には生きていけない。そう思った。
だから俺はゲンナに誘われるままについていった。それがアイシルと会える近道だったからな……。
つまり、俺もゲンナを利用したんだ。お相子だな」
自嘲交じりの笑みをかすかに漏らしたジンは、何かを思い出したのか、ぐっと、唇をかみ締め、泣き出しそうな表情になった。
「いいや、お相子じゃない。俺は、アイシルのことを責める俺を悲しそうに辛そうに見つめるゲンナを何度となく見てきた。その度にもしかしたらアイシルの言葉は真実なんじゃないかって、心のどこかで感じていたんだ。でも、ずっと気づかないフリをし続けた。だってそうだろ? 認めてしまったら、俺は……」
声が詰まった。ジンは目を伏せる。
「ジンさん……」
ツバキはジンの腕にそっと触れた。
「これが真実なんだな」
ジンのその声には全てを受け入れたものの強さが含まれていた。そしてジンは顔を上げる。
「ああ、俺が落ち込んでどうするよ。傷ついているのはゲンナとアイシルだ。俺は認めたくない現実を突きつけてくるアイシルを、現実逃避のために恨んで殺そうとしたんだ。友達だったのに!」
ジンは、深く息を吐き呟いた。
「バカだよな……」
「バカじゃないネ。それを認めるジンさんは強い」
ツバキが静かにだが力強く励ますとジンの瞳が潤んだようだった。それに気づかれたくなかったのか、ジンは目をそらし小さな声で言った。
「なんだよ、それ」
ただ真実を述べたアイシルと、大きな精神的ショックから自分を守ろうとしたジン。それが友情と言う絆を無情にもほどいてしまった。
呪うべきは運命だ。
ふと、ジンが何かに気づき遠くを見遣った。ツバキもその気配に気づき振り返る。
「ゲンナさん!」
ツバキは弾む声でその名を呼んだ。これでいつも通りいつものメンバーが揃ったのだ、ツバキは本当に心から喜びを感じていた。
だがゲンナはピタリと歩を止め、何を言うでもなく、ただ悲しそうな、申し訳なさそうな顔をしていた。
ゆっくりと歩き出したジンは、ゲンナの目の前でピタリと歩を止めた。
ジンの視線をゲンナは真っ直ぐに受け止めている。あまりにも痛々しい表情をしながら。
なんだかよくない雰囲気にツバキの心に不安がよぎった。
「ジンさ……」
仲を取り持とうとツバキが口を開けた瞬間、ジンは拳を振り上げた。
「ジンさん!」
間に合うはずはない。だがそれを止めようとツバキは駆け出す。
ゲンナは避けようとはせず、受け入れるためにか、瞼を硬く閉じ体をこわばらせて身構えた。だが、思いがけなくジンの拳はゲンナの頬に、とん、と軽く触れただけだった。
「え?」
ゲンナはジンにきょとんとした目を向けた。
ジンは意地悪そうに笑う。
「ふっ……。ビビッてやんの」
「なっ! おまっ……。私をからかったのか?」
ゲンナは恥ずかしかったのだろうか、珍しくほんの少しだけだが顔を赤らめながら怒っていた。
それに気づいたジンは今度は嬉しそうに、そしてからかうように、にやりと笑う。
「イヤ〜、いいもの見たなぁ。可愛いトコあるじゃねぇかゲンナちゃんも」
「くそっ!」
またも珍しく、感情を口に出したゲンナは、一度、深く息をつき拳を握り締めて静か言った。
「殴っていいか?」
ジンの顔が引き攣った。
「いや、やめてくれ。ゲンナのパンチ力はシャレになんねぇからな」
そんなやり取りをしていた二人が、ようやくツバキの方へ視線を向けた。ツバキは止まらぬ涙を拭いもせず二人を睨み付けた。
「どうした!」
ゲンナとジンは、慌てた様子で思わず声をあわせて聞いてくる。
ツバキは涙を拭い、笑顔で言った。
「もう! 心配かけんなヨ〜」
ツバキは、二人が本当に喧嘩をはじめたのだと心底心配していたのだ。その張り詰めた気持ちが、ぷつりと切れて、思わず涙が溢れてしまった。
ゲンナとジンは、泣き笑いのツバキを見て力の抜けた笑みを漏らし、言った。
「悪かったな……ツバキ」
【対決】
カチ……
小気味よい音が響いた。
それは、珍しく真剣な表情をしているツバキが銀色の小さなリヴォルバーの撃鉄をあげたからだった。
同じように顔をこわばらせているアルツハイネス公は、妖魔祈祷書に手を置いたまま、懐中時計に目をやり重苦しい声で言った。
「十二時だ……」
「どこから来る!」
ジンが表情を引き締め、辺りを注意深く見回す。と、
「勿論! 正面からさ!」
少年特有の甲高い声が上方で響いた。
次の瞬間。十字型の採光窓が弾けて砕け散る。緊張が極限に達したかのように空気がピーンと鳴った。
「アイシル」
ゲンナは表情を引き締め『妖魔祈祷書』を守るように、祭壇の前に仁王立ちになった。
アイシルは十字の右肩に当たる窓枠に立ち礼拝堂を睥睨しながら高らかに響く声で叫ぶ。
「さあ、お姉ちゃん。それをこっちに!」
その台詞を聞きアルツハイネス公は、真っ青な顔になって立ち上がった。
「お! お姉ちゃん? 君はあの盗人の姉なのか!」
「すみません。私も泥棒です。あなたの目が『妖魔祈祷書』から逸らされるのをずっと待っていたんです」
悪びれた様子もなく言ったゲンナは、それが一族の掟なのか、犯行予告カードを公に投げつけてから、『妖魔祈祷書』を手に取った。そして、天井高く放り上げて無表情で抜刀する。
「やめろ!」
叫んだのは、アルツハイネス公とアイシル。
「早くとめろ!」
アイシルの命令で魔術師は手を前にかざす。ゲンナは突然背後から意思あるもののように動き出した祭壇に体当たりされ、弾き飛ばされた。
「ぐっ!」
が、小さなうめき声を漏らしつつも身軽に受身をとり立ち上がる。
「バカ! お姉ちゃんを攻撃してどうするんだ! 本を動かせばよかっただろう!」
アイシルが部下をののしっている間に、床に落ちた祈祷書にアルツハイネス公は駆け寄り手を伸ばす。
気づいたアイシルは、再びヒステリックに命令を下した。
「あいつ邪魔だ! ヤレ!」
それを合図に全ての木製の長椅子たちが、一斉に持ち上がる。ゲンナは瞬時に状況を察知して盾になるようにアルツハイネス公に覆いかぶさった。
「くそ!」
ジンは剣を鞘ごと引き抜き、構え、銃を構えるツバキに忠告する。
「ツバキ! そんなおもちゃは役にたたねぇ! 身を屈めてろ!」
「ふあああ!」
慌ててツバキが身を屈めた瞬間、長椅子が攻撃を始めた。
弾丸のごとく向かってくる木製の椅子達をジンは豪快に叩き壊す。
それでも攻撃をやめない破片がゲンナに降り注ぎ、ぶつかった。
「おい! バカ! お姉ちゃんにあたっているだろ! やめろ!」
アイシルの叱責で長椅子たちはピタリと攻撃を止めた。どうにもアイシルたちは息が合っていないようだ。
だが、何故だか分からないが魔術師はアイシルに従順ではある。アイシルの力を使えば、ひと一人服従させることくらい容易いのかもしれない。
いや、そうではない、同じ孤独を抱えたもの同士、魔術師は自然とアイシルに惹かれたのだろう。
「あなたは、それを置いてここから去ったほうがいい。あの子は私以外には容赦はしませんよ」
ゲンナが小さな声で、だが、強くアルツハイネス公に忠告した。だが、当の本人はそれを頑なに拒否した。
「置いていけ? ごめんだ! これは私の物だ!」
「ふん! 老いぼれてなお欲望忘れずとは、醜い。つまり、その悪魔の祈祷書の力に魅了されていると言うことだ!」
そう言うアイシルのその声には、嫌悪感がありありと表れていた。
アルツハイネス公は『妖魔祈祷書』を抱きしめたまま立ち上がった。
「そうだ! 私はコレを手に入れたいがばかりにここに移り住んだのだ! この書物はアナグラムで書かれてある。今は解読中だ! 全ての解読を終えたとき私は若さも力も全て手に入れるに違いない!」
アルツハイネス公がアナグラムの解読協力者を、三行広告で募集していたのはそれが目的だったのだ。だが、釣れたのは皮肉にも『妖魔祈祷書』を狙う盗人だった。
その若い方の盗人は憎々しげに言い放った。
「とっとと死ねよ老いぼれは!」
「お前、そういう言い方はないだろ」
悪口をたしなめたジンにアイシルは冷ややかな視線を投げつけた。
「何だ、お前いたのか? 己の愚かさを恥じて首でも吊ってんじゃないかと思ったが、そうだ、お前は恥知らずだったな?」
ジンに辛辣なのは姉も弟も同じだ。と言うよりも、悪口そのものがアイシルの口癖らしい。ジンは頬を引きつらせた。
「お前……。絶対泣かす!」
ジンの背後でガラガラと、何かが崩れる音がした。振り向くと邸へと続く廊下の入り口が崩れてふさがっていた。
どうやら皆がジンとアイシルのやり取りに気を取られている隙に、アルツハイネス公は廊下へ向かって駆け出していたようだ。だが目ざとい魔術師が廊下への入り口を壊してふさいでしまったのだ。
壊れた廊下への入り口の前で、うろたえるアルツハイネス公にアイシルは呪いの言葉を吐きかけるような調子で言った。
「ふん。逃がすかよ」
「アルツハイネス氏! 『妖魔祈祷書』をこちらに! そうすれば、あなたの命だけは保障される!」
ゲンナが懸命に訴えている。だが、その再三の忠告も拒絶し、アルツハイネス公は『妖魔祈祷書』を胸に確と抱き、取り出した銃を発砲して叫んだ。
「どきなさい!」
ゲンナは身じろぎもせず、じっと、アルツハイネス公の瞳を無表情で見つめたままでいる。
まったく度胸が据わっている。ゲンナのこういったところは、普通の女性にはマネが出来ないところだ。
アルツハイネス公は舌打ちをして、ゲンナの足元を狙って何度も発砲をした。
さすがのゲンナも避けるしか術がなく、結果、アルツハイネス公の退路を作ることになった。
そのまま、無茶苦茶に発砲しながら外へと続く白い大きな弓形の両開き扉に向かって駆けていくアルツハイネス公を、アイシルは冷ややかに見下ろしていた。
そのアイシルがすぐ傍にいる部下のみに聞こえる声で、ぼそりと何かをつぶやいた。
魔術師は、不気味に一つ頷く。
***
地が揺れる。
低く響く轟音。
直後に起こったのは天の裂けるような音だった。
ハッとした顔をしたゲンナはアルツハイネス公に向かって駆け出す。
それと同時に公自身も気づいたようだった。
ガラガラと音を立てて砕け落ちてくる礼拝堂の荘厳で重厚な天井に。
「う……うわあぁぁぁ!」
絶望と恐怖の絶叫。
ゲンナはそんなアルツハイネス公に体当たりし弾き飛ばした。
「ゲンナ!」
その瞬間、ジンの叫び声をかき消す大きな音を立て、冷たい礼拝堂の砕けた空が、ゲンナの上に容赦もなく降り注いだ。
「ゲンナさん!」
「お姉ちゃん!」
ツバキは顔面蒼白で埋もれたゲンナに駆け寄り瓦礫を掻き分ける。
アイシルも顔色をなくし、飛び降り姉のもとへ駆け寄ろうとした。が、途中、腰を抜かしたアルツハイネス公の傍で立ち止まった。
アイシルの瞳は床に落ちている『妖魔祈祷書』に注がれていた。
ゆっくりと身を屈める。
「ゲンナさん。死んじゃダメヨ!」
「聞こえるか? ゲンナ!」
ジンとツバキはゲンナに声を掛けながら懸命に瓦礫を掻きわける。
アイシルは『妖魔祈祷書』を頭上に掲げ、半眼でそれを見つめている。
すると、ほんの一瞬の後、アイシルの全身に怒りが満ち始めた。
「くそ! これは『聖なる王冠』じゃなければ、悪魔の祈祷書ですらない! イカレた坊主の書いた、単なる妄想日記じゃないか!」
狂ったような声で叫びながら、怒りに任せて床に叩きつけられた『妖魔祈祷書』は、衝撃と自身の古さとでバラバラに舞い散った。
「ああぁぁ! 私の……私の希望が……」
絶望の声を上げるアルツハイネス公の目の前で、バラバラになった『妖魔祈祷書』を踏みつけにしたアイシルは、そのまま姉のもとへ駆けて来る。
「どけ!」
ジンとツバキをヒステリックに押しのけアイシルは憑かれたように瓦礫を掻く。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
ぶつけたのだろう、頭から流血し気を失しているゲンナの姿が、わずかに現れた。
「お姉ちゃん!」
悲痛な叫び声を上げながら、血に染まった姉の頬に伸ばしたアイシルの腕が、その頬に触れる寸前で強く握り掴まれた。
「!」
アイシルはあまりに驚いたのか、声すら出さなかったが、顔には怯えと驚愕が瞬時に表れていた。
その時、ゲンナの瞳が鋭く見開かれる。ゲンナは弟の腕を掴んだまま瓦礫の中から這い上がる。
それはゆっくりと、だが、確かな足つきで。
「アイシル……。今日は、さすがの私も怒っているぞ?」
落ち着いた低音の声が、聞くものの恐怖感を煽るのだろう、腕をつかまれたまま、やはり声を出すことも出来ず、アイシルは顔を真っ青にしている。
ゲンナは弟を鋭く睨みつけ、ゆったりとした口調で言い放つ。
「お仕置きが、必要だな?」
「ヒッ!」
不意に緩んだゲンナの拘束から、慌てて手を引っ込めたアイシルは、やはり青い顔のまま、しりもちをついた。
ゲンナがじりじりと、そんなアイシルににじり寄る。
「うっ……!」
アイシルはあたふたと立ち上がり背を向け駆け出す。
「おい、ゲイム! 何とかしろ!」
腕の中に滑り込んできた年下の主の命を聞き、コクリと頷いた魔術師は素早く手を振り上げた。
と、また激しく地が揺れる。
埃を立てながら、すさまじい音と共に礼拝室の屋根が崩れだす。
「キャアァァァ!」
ツバキが叫びながら身を屈めジンは身構えた。
だがそれら全ての崩れた屋根たちは二人の上に落ちるこてゃなく、順にゲンナを目指し向かって行く。
「ゲンナ!」
それに気づき、叫ぶジンの声が、ゲンナに聞こえていたかどうかは分からない。
「おい! やりすぎだ! ゲイム!」
アイシルは部下に抗議したが攻撃が止むことはない。
飛び交う瓦礫の向こうでゲンナが、ゆらりと動いた。
派手な剣が抜き放たれる。
ゲンナは腰を落とし、目前に迫った大きな瓦礫を薙ぎ払った。
瓦礫は、粉々に破壊され力を失う。
ゲンナはまた眼光を鋭くした。
そして、一つ破壊したところで気を緩めず、次々と襲い掛かってくる瓦礫たちを、力任せに破壊していく。
破壊しながらも、顔色一つ変えず、ゲンナは少しずつ、アイシルのもとへと近付いていっていた。
「ヒッ!」
そんな姉の姿を見て、アイシルは、ますます顔を青くし後ずさりした。
ゲンナのほうは、破壊しきれなかった瓦礫に攻撃を受けながらも、平然とした顔つきで、確実に一歩ずつ前進していく。
「おい。あいつ、まだ、流血しているんだぞ?」
ジンの心配をよそに、ゲンナは血に紅く染まったまま瓦礫の嵐の中を前進し続ける。
その姿のあまりの凛々しさに、真っ赤な流血さえも彼女を飾る真紅の薔薇の花びらのように見えた。
「信じられねぇ……。ホントに、あいつ、女か? いや、人間か?」
ジンは突っ立ったまま勇ましいゲンナに見惚れていた。
ツバキも口を開けぼんやりと、いや、うっとりとゲンナを見つめていた。
アイシルは恐怖のためにか動くことすら忘れているようだった。そんなアイシルと目が合ったとき、ゲンナは鋭く睨みをきかせた。
「うっ!」
アイシルは怯む。
「アイシル!」
弟の名を荒々しく叫びながらゲンナはぐいっと手を伸ばした。
自らぶつかっていく形で向かってくる瓦礫に飛び込んだゲンナは、とうとうアイシルのすぐ傍に飛び出した。
アイシルの隣に立っていた魔術師は、その怯え竦むアイシルを助けたくとも、もう手だてがないのか、それとも同じように恐怖で竦んでいるのか、ただ立ち尽くしていた。
ゲンナは、ついに弟の細い腕を掴んだ。
その瞬間、ゲンナの瞳に浮かんだのは暖かい感動の色。厳しい表情さえも緩み、押さえきれない衝動でアイシルを自らの胸に引き寄せ抱きしめる。
それは、強く……強い……抱擁。
思いがけない姉の行動に驚きの色を隠せないでいる弟をゲンナはたまらなく愛おしそうに抱きしめていた。
「ああ、やっと捕まえた……」
その囁きは悲哀に満ちた、だが愛情のこもったやさしい声であった。
ゲンナはなおも愛おしそうに弟を抱きしめて、さっきよりも情熱のこもった声で言う。
「もういい。戻って来い……。大丈夫、お姉ちゃんは、お姉ちゃんだけは、味方だから……だから、なぁ。誰にも邪魔されない静かな場所で、二人で暮らそう……アイシル……」
ハッとした表情のアイシルの瞳が、わずかに揺れた。
アイシルの全身から力が抜けていく。
「……お姉ちゃ……」
瞳を閉じ、かすかに震えた声で、ぽつりと呟いたアイシルだったが、すぐにグッと拳を握りしめ、
「それでも……」
そう言いながら姉を引き離した。
次の瞬間だった、戸が勢いよく開け放たれる音と共に銃声が響いた。
それは、全てを無に帰すような、無機質で甲高い乾いた響きだった。
「くっ!」
アイシルは小さく呻き、ぐらりと揺れた。ゲンナは心配そうに叫ぶ。
「アイシル!」
「そこまでだ!」
判決を下す神の厳かさで、壊れた礼拝堂を包み込むように、高らかにその声は響いた。