A GRIYE BOY

グライヤの少年

ミズキの章(上)

  お前は聞くだろう 仲間のために
  お前は訊くだろう 繁栄のために
          (名も無き詩集)より

【二人の使者】

 サンシ村はグライヤに残る、数少ない緑多き山間の村だった。
 そんな長閑なサンシ村で生まれ育ったミズキは今、名残を惜しむように村の様子を記憶に焼き付けている。
 燦燦と輝く小川のほとりでは、輝く小さな魚をたくさん釣った思い出がよみがえる。
 不意に叢から足元に飛び出してきた小さな蛇をミズキは、ヒョイと掴み手のひらに載せて、つぶやいた……
「サーペント……」
 今夜、ミズキは村から離れる。手のひらの蛇は鎌首もたげて指をつついている。ミズキは蛇を解放してやった。
 ふんわりと緑の香《か》を孕む柔らかな風が少年の茶色いくせ毛の髪を撫でる。
 去りゆく小さな蛇を見送るミズキの顔は、今にも泣き出しそうだったが、それが彼の平生の顔だった。泣き出しそうな印象を与えるのは少したれた眉と穏やかな瞳のせいかもしれない。それでもその瞳の奥には、いつも力強い輝きが宿っていた。
 吸い込まれそうなほどに澄み切った青い空を眺めて少年は数日前の出来事を回想し始める――

 学校の帰り道、いつも通り友達と少し道草をして帰ってきたミズキの耳に、歳の離れた二番目の姉アカリの怒鳴り声が聞こえてきた。
「ミズキはまだ、十歳なんだよ!」
 少年ミズキはいぶかしく思いながらも、自宅の木の扉を開ける。
「おや、これはタイミングがいい。君がミズキくんだね」
 扉のすぐ先に立っていた見ず知らずの長身で眼鏡をかけスーツ姿の男が柔和な笑みを見せ、ミズキに語りかけてきた。その男がミズキに近づこうとするのを、姉のアカリはすばやく二人の間に割り入ることで阻止をしたので、男性は少し困惑の表情をつくった。
 母ローズと長女のセイラもミズキのそばへ駆け寄ってきた。三人とも、不安げな、そして悲しげな表情を浮かべていた。
 男は親身な様子でゆっくりと、深く頷いた。
「お三人様のお気持ちは痛いほど分かります。分かりますが、ここは、この国の現状をお考えになって人助けだと思い、ミズキくんを我々に預けていただきたいのです。たしかにミズキくんはまだ十歳ですが、十歳だからこそ今から我々の軍でしっかり修行されれば、誰よりも強く立派なサーペントスレイヤーとなることが可能なのですよ」
 『サーペントスレイヤー』男は、はっきりとそう言った。
 実はミズキの左の腕には二重の輪が浮かび上がったような痣がある。それは父と同じ痣であり、そしてそれがサーペントスレイヤーである証だということを少年は母から聞いて知っていた。だから、いつか自分も王都に行かねばならなくなるということも分かっていたが、それは漠然としたもので、今、現実に王都からの使者を前にするとミズキは頭が真っ白になってしまった。
 男は優しそうな笑みを湛えながら、ミズキの顔をまっすぐ見つめて言った。
「君の意見を聞かせてもらえるかな?」
 突然に意見を求められて動揺するミズキを、アカリは強く抱きしめ男に抗議する。
「幼いミズキに意見を求めるなんて卑怯だ。あんたみたいな大人の男が無言のプレッシャーを与えたら、嫌でも頷いてしまうだろう」
 いつものハグとは違い、痛くて苦しかったが守られている感じがした。
 普段は穏やかな表情の長女セイラは、厳しい顔つきになり男に言う。
「幼いこの子に、今、結論を急かすのは酷です。せめてあと五年です。その時、この子が自分の意思で王都に行くと決めたのならば、私たちも止めはしません」
 セイラの凛とした声は、ミズキに語りかけるときの春の空気のような穏やかな口調とは、まったく違った。
 母は、いつもミズキに見せてくれる太陽のような明るい笑顔を隠して、崩れるように両膝と両手を地面につけて頭を下げた。
「この子の父もサーペントスレイヤーとして十年前……この子が生まれる二ヶ月前に、王都に召集されているのです。それなのにこの子まで奪われたら私っ……お願いです……見逃してやってください……」
 涙声の悲痛な訴え。母のそんな声を聞いたのも、そんな姿を見たのも初めてだった。どんなときでもカラッとした笑顔でいる母。だからこそいっそうその姿が、ミズキの胸を締め付けた。
 ミズキは自分を抱きしめたままのアカリに静かに声をかけた。
「お姉ちゃん……」
「ん?」
 アカリの束縛が緩み自由になったミズキは、二歩、三歩、と、しっかりとした足取りで前進してスーツの男をまっすぐに見据えた。
「おじさん」
 決意に満ちたミズキを見て男は穏やかに微笑んだ。
 ミズキは背筋を伸ばす。
「僕、王都に行きます」
 自分でも驚くほどに大人びた声で言えたと思う。だが姉や母は、そのセリフのほうに驚いたようだった。
 アカリはミズキを無理やり振り向かせて肩をゆする。
「ミズキ! 何を言っているんだ!」
「だって、これって、王様の命令なんでしょ?」
 だから母は、なりふり構わず見ず知らずの王都からの使者に土下座をするのだ。そのくらいのことは幼いミズキにも分かった。
 ――断れば、きっと、お母さんやお姉ちゃんが捕まっちゃうんだ……
 母は、すぐ隣に来てミズキと目線をあわせて言った。
「そんなことミズキは気にすること無いの。お母さんはね、ミズキのためなら王様にいっぱい頭を下げられるし、王様と闘うことだって出来るんだから……だから、ねっ。ここにいて、ミズキ……」
 ――ここにいたい。ここにいたいよ!
 ミズキは下唇をかみ締め泣きそうになるのを、ぐっ、と、堪えた。
「でも、僕は、男の子だから……」
 ――いつまでも、お母さんやお姉ちゃんに守られているばかりじゃいけないんだ!
「それに、僕は、お父さんの子だから……」
 会ったことのない父親だが母や姉から、優しくて強い人だということを聞かされていたミズキにとって父は誇りだった。
 母は思わずミズキを抱きしめた。そして言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉が見つからずにただ、「どうして……どうしてよ……」と、繰り返していた。
 そんな親子を、男は悲哀に満ちた表情で見つめながら、それでも淡々とした口調で言った。
「決まりですね。ミズキくん、君は聡明な子です。では次の満月の夜に迎えに来ます。それまでに旅立つ準備を済ませておいてくださいね……」
 スーツの男は無駄のない動きで親子に一礼をし、木のドアを開けて去っていった。

 あの後、ミズキは努めて笑顔をつくっていたが、姉や母はたぶん泣いていたように思う。
 思い出して辛くなるのをミズキは、キュッと唇をかみ締めてこらえて、一本杉の丘を目指して駆け出した……
 学校。広場。友達の家。小さな木造の橋を過ぎ、よみがえる記憶。友達と駆けた日々。
 ――誰が一番初めに一本杉にタッチできるか、よーいドン!――
 息せき切って走るミズキの目前に、背高のっぽの一本杉。
「タッチ! 僕が一番!」
 言った後、こみ上げてきた涙をぬぐい振り返る。この、一本杉の丘は、村が一望できる場所で、ミズキの……みんなの大好きな場所だった。
 遠くでヤギが鳴いている。もうすぐ夜が来る。

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***

 空元気で終えた、はやめの夕食の後、その男は再びやってきた。相変わらず、きっちりとスーツを着こなした男は無駄のない動作で言った。
「準備は整っていますか?」
 アイロンがかけられた余所行きの白いカッターシャツにサスペンダー、膝下までのこげ茶色のズボンに着替えさせられたミズキは、無言で頷き食卓から離れる。
 テーブルの横の、真冬は休むことなく働き続ける暖炉の前に置いてある、最小限の荷物が入った茶色いボストンバックを手にし、鳥打帽をかぶり、ついにミズキは旅立つ。
 長女セイラは、ミズキを抱きしめ、「しっかりね」と言って、おでこに口付けをする。次女アカリもミズキを抱きしめて言った。
「辛くなったら帰ってくるんだよ」
 そして母ローズは、ただ無言でミズキを強く抱きしめた。
「では、そろそろ行こうか」
 スーツの男のそのセリフが別れの合図だった。ミズキは、男の後を追うように足早に歩き出す。
「ミズキー!」
 少年の名を呼ぶ、母の悲鳴にも似た声が追いかけてきた。
「振り返るな!」
 母の声に応えようとしたミズキを男は強い口調でとめた。
「振り返ると、もっと辛くなるよ、ミズキくん……」

 母ローズは、もう小さくなってしまった息子の後姿を見て、泣き崩れた。セイラも、止め処もなく流れる涙をぬぐおうとはせず、母のそばにしゃがみこみ、母の背をなでていた。
「っ!」
 アカリは感情の赴くまま数メートルほど突っ走り、怒りを隠すことなく力いっぱい叫んだ。
「サーペントなんて! 大嫌いだー!」

***

 真ん丸いお月様がきらきらと輝いている。
 ミズキは満月が好きだった。淡く光る丸い月からは、今にも妖精たちが零れ落ちてきそうで、わくわくした。だけど今日の月は、ただ機械的に時を告げるためだけの空に浮かぶ時計のようにしか見えなかった。
 ミズキは黙々と前を歩くスーツの男に声をかける。
「歩いて王都まで行くんですか?」
 男は振り返り、あいかわらずの微笑を湛えて言う。
「あはは、まさか。歩いていくのは隣の町にある駅舎までだよ。そこから、君のためだけに走らせる夜行の汽車に乗るんだ」
 気がつくと、いつのまにか大きな石造の橋のところまで来ていた。これを渡り終えれば、村の外だ。
「ん?」
 そう言って男は、突然に立ち止まり、じっと前方を見つめた。ミズキは首をかしげて男の視線の先を追ってみた。
 橋の真ん中に一人の男が、こっちを向いて立っている姿が見えた。男は、ぼさぼさの黒い髪で無精ひげを生やし、背が高く体格もいい。その存在は月明かりに照らされて不気味に強調されていた。
「あの制服は……」
 と、スーツの男がつぶやくように言う。
 無精ひげの男は軍服のような服を着崩していた。その軍服の男は何故かミズキの顔をまじまじと見つめた後、何事もなかったかのようにこちらに向かって歩き出した。
 スーツの男も再び歩き出したのでミズキも追うように後に続いた。ミズキは軍服の男をもう一度だけ見た。
 ――あんな人、うちの村にいたかな?
 ミズキがそんなことを思った次の瞬間、ドゴッ! という鈍く大きな音が聞こえ、その直後にスーツの男が、まるで大砲の弾のように後方へと吹き飛んだ。
「おじさん!」
 ミズキは地に仰向けに倒れたスーツの男のもとに駆け寄った。スーツの男は意識を失っているようだった。
 いったい何が起こったのだろう? ミズキは、ハッとして、軍服の男を見た。男は半眼で倒れたスーツの男を見つめている。
 もしかしたら、この軍服の男がすれ違いざまにスーツの男を殴り飛ばしたのかも知れない。
 ゾワッ! と、恐怖が沸き立つ。
 軍服の男はスーツの男からミズキへ視線を移したかと思うと、すばやい動作で走りよってきて、ミズキを抱きかかえ、村の方向へと駆け出した。
 突然の出来事に抵抗も出来ず、ボストンバックはミズキの手から、すべり落ちた。

***

 男は俊足だった……。ゴウ、という風を切る音。めまぐるしく変化する景色たち。
 ミズキは今、自分がどの辺りにいるのか把握できないでいた。
 男の足の速いせいもあるが、頭が真っ白で自分がおかれている状況を把握することが出来ないせいでもあった。

***

 一本杉の丘にたどり着くと、「ここまでくれば安心だろう」と、男は言ってミズキを丁寧に肩から下ろした。
 地に足が付いた瞬間、ミズキは、また得も言われぬ恐怖心に襲われて、そのまま腰を抜かした。
「大丈夫か」
 低い声で軍服の男は、ミズキを気遣った。
 ミズキは、恐々と男を見上げた。堂々たる体躯のその男は月下に怪しく光っていた。
 もしかしたらこの男は冥府からミズキを食らう為に這い出てきた悪鬼なのかもしれない。
 ゾッとしてミズキは、座ったまま数歩後退した。男は表情を変えず言う。
「私の名はカイという。お前の父リュスイの仲間だ」
「え……?」
 意外な人物の口から思わぬ人物の名前が出た。
 ミズキは一本杉に手をかけてゆっくりと立ち上がる。
 カイと名乗った男が腕をまくると、ミズキと同じ二重の輪の痣が浮かんでいた。カイは淡々と言った。
「お前の仲間だ」
 ――仲間?
 カイは遠くの山を指差した。
「あの山を越えると、リュスイや他のサーペントスレイヤーの仲間が待っている」
 ――父さんが待っている?
 ミズキは男を、まじまじと観察し始めた。男は無表情で感情がまったく読めない。父の名前を知っているからといって、この男の言葉を鵜呑みにしてもいいものなのだろうか?
「行くぞ」
 と、カイと名乗った男が言った。
 ――行く? どこに? 山の向こうに?
 ミズキは、おびえながら頭《かぶり》を振り、しどろもどろと言った。
「で……でも……僕、王都に行かないと……」
 カイがミズキを見つめると、ミズキは金縛りにあったかのように硬直し、呼吸を止めた。
 カイはその視線が相手に恐怖心を抱かせていることに気づいていない様子で、ミズキを見つめたまま口を開いた。
「国王は、サーペントに取り憑かれている」
「え?」
 淡々とした口調だった。
 ミズキは、言葉の意味を理解するために、心の中で繰り返した。
 ――国王が、サーペントに、取り憑かれている?
 この男は何を言っているのだろう。サーペント退治のためにサーペントスレイヤーを召集した国王自身が、そのサーペントだとそう言っているではないか。
 カイは言葉を続けていた。
「お前はもう我々と同じ国王軍から追われる立場だ。家に戻りたいだろうが、軍はおそらくすぐに連れ戻しにやってくるだろう。この先、一歩も外へ出ずに隠れ暮らしてもいいが、それはそれで辛いぞ?」
 ――追われる立場? 誰が? 僕が? どうして僕が国王軍に追われるの? 追われているのは、この人が、悪いやつだからじゃないの?
 ミズキは幼いながらも色々と思考をめぐらせる。スーツ姿の男がいつしか言っていたように、確かにミズキは聡明な少年だった。だが、やはり彼は、まだまだ子供だった。
 ――理由はよく分からないけど、この人は僕をだまそうとしているのかもしれない。僕が子供だから、王様がサーペントだとか、軍が追ってくるとか、そんな単純な嘘に騙されると思っているんだ! きっと……
 ミズキは俯き下唇をキュッと噛む。
 ――僕は騙されないよ。
 ミズキは、カイに自分の動揺を悟られないように精一杯に顔と声を作って言った。
「わかった。でも、その前にもう一度、お母さんとお姉ちゃんに会ってきてもいい? 僕が父さんと旅するって聞いたら、きっと安心する」
 嘘だと悟られたら殺されるかもしれない。ミズキの心臓は早鐘のように高鳴り緊張と恐怖で少しでも気を緩ませると気絶してしまいそうだった。だが男は、意外にもあっさりとミズキの要望を受け入れた。男は、ゆっくりと頷き言った。
「いいだろう、行って、母と姉を安心させてやれ」
 ――うまくいった!
 ミズキは、くるりと半回転する。本当は一刻も早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られていたが、逃亡を気取られるのを恐れ、わざと、ゆっくりと歩いて進んだ。
 男はそんなミズキの背中に言葉をかける。
「出来るだけ早く行って、早く戻ってくるんだ」
 ミズキは少し振り向いて首肯し、すぐさま駆け出した。
 ミズキは何も考えずただがむしゃらに走る。軍服の男が目を光らせ、牙を剥き、背後から猛然と追ってくる幻覚に恐怖しながら。

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【流れる街】

 スーツの男は、よろけながら、めがねを拾いミズキが落としていったボストンバックも拾おうとしていた。
「おじさん!」
 その声に男は、ゆっくりと振り返る。
「ミズキくん……」
 走りよって来たミズキの姿を見てスーツ姿の男は安堵したようだった。
「ああ、よかったミズキくん。無事なのだね、意識を取り戻したときに君の姿が見えなかったから……。あの軍服の男は?」
 スーツの男は辺りを見回して軍服男の姿を探した。ミズキは首を横に振った。
「大丈夫です、もう、ここにはいないですよ。でも、すぐに追っかけてくるかもしれないんです。だから早く行きましょう」
「分かった」
 スーツの男は背筋を伸ばした。まだ殴られたところが痛むのか、苦痛に顔をゆがめたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り言った。
「じゃあ、行こうか」

***

 木造の、赤い三角屋根の駅舎。その前にいた兵士がスーツの男に敬礼をした。
「ご苦労様です。モリ殿」
 ミズキは生まれて初めて汽車に乗る。
 自分ひとりのために走る王都行きの汽車の内部は黒くてぴかぴかで、座椅子には赤い革が張られていた。
 ミズキは車窓側に座った。兵士にモリ殿と呼ばれたスーツの男もミズキの前の窓際に腰を下ろした。
 汽車は奇妙な声を上げ、ゆっくりと出発する。これが家族旅行ならば胸踊っていたことだろう。ミズキはスーツの男、モリの背中に質問をした。
「おじさん。僕、お父さんに会わせてもらえるのですか?」
 男は振り返り、申し訳なさそうにこう言った。
「そういえば君のお父さんもサーペントスレイヤーなのだったね。でもおじさんは今回初めてサーペントスレイヤーの育成の担当を任されていてね、まだ詳しいことが分からなくて、なんとも答えてあげられないけど、きっとそのうち会えるよ」
 ――そのうち……。そのうちって、いつなんだろう?
 汽車は、どんどんと加速する。ミズキは車窓をぼんやりと眺めた。
 父から送られてきた手紙がふと記憶によみがえる。ここ数年は、ぱたりと途絶えているが、年に二度は必ず送られてきた手紙の内容は、いつも簡潔で、冒頭は決まっていた。「ミズキ元気か?」。
 父は抱き上げてやることさえ出来なかった末っ子の長男を一番気にかけているようだった。「ミズキ」という名前も父が王都に旅立つ前に生まれてきた子に名づけてほしいと言い残した名前だという。そんな父の手紙の内容は、いつも母や姉を気遣う言葉の後「今は、どこそこの町にいる。仲良くするんだぞ」で終わるのだった。
「……会いたい、な……」
 ミズキは、小さくつぶやいた。

***

 汽車が走り出してどれくらい経っただろうか。車窓では、いくつかの街が過ぎていった。どの街もミズキの住む村とは違い、住宅は密集し高い煙突の工場が目立っていた。
 その時、不意にミズキの視界に月下に広がる壊れた町が飛び込んできた。コンクリートで固められた地面は割れ、ほとんどの工場や民家はつぶれて形になっていない。そこは文字通り壊れた町だった。
「八年前から、この町の時は止まっている……」
 スーツの男モリは、独り言のようにそう言った。そしてまた、独り言のように言葉を続ける。
「突然現れたサーペントに破壊されてから……この町の時は止まっているんだよ」
 何を考えているのだろうか? モリは流れる景色を無表情で眺めていた。
 そして、モリは眼鏡を右中指で押し上げて、また、ぽつりと言った。
「この町は、私の生まれ育った町なのだよ」
 男は、この町で過ごした幸せな日々を思い出しているのだろうか? それとも突然訪れた悲劇を思い出しているのだろうか? どこか遠い目をしている。
 絵のように、変わることのない男の表情に、胸が締め付けられるような思いがしたミズキは抱えた両膝に顔を埋めて考える。
 愛する町、家族、仲間を失う悲しみと、暴れだしたサーペントの末路。
 ――サーペントスレイヤーって、なんなんだろう?
 父は、十年も戦っている。それでもサーペントの被害は無くならない。
 ――倒すだけじゃ解決できないこと、なんじゃないのかな?
 ――お母さんが怒るのにも訳がある。川が氾濫するのにも訳がある。蛇が噛み付くのにも訳がある。
 ――きっと、サーペントが暴れるのにも、訳があるんじゃないのかな……?

***

 ミズキはいつの間にか眠っていたようだ。
 グライヤを包んでいた闇は去り夜明けが訪れている。
 ミズキは大きく伸びをして窓の外を見た。朝靄の中、ずらりと無機質な工場群が並んで煙を吐き出している。
「おはようミズキくん。よく眠れたかい? もうすぐ王都だよ」
 スーツの男モリは、幾分やつれた笑顔でミズキに語りかけ、熱い紅茶と、ベーコンにチーズとレタスをライ麦パンではさんだサンドイッチを差し出した。
「ありがとうございます」
 そういえばお腹がペコペコだ。ミズキはサンドイッチにかぶりついた。

 ミズキの軽い朝餉が終わった頃、汽車は速度を落とし、やがて動きを止めた。王都に着いたようだ。
 早朝の、人影もまばらな王都の駅舎は広く、天井も高かった。そして、色とりどりのタイルで彩られた幾何学模様の壁画に天井画はミズキを圧倒した。
「行くよ」
 駅舎をもの珍しげに眺めるミズキをよそに、スーツの男は見慣れた駅舎を、ずんずんと進んでいく。ミズキは慌てて男の後を追った。
 駅舎を出ると立派な黒い車がお出迎えしてくれた。四角くて、ぴかぴかの車。サイドに三つの真四角な窓が三つある。村には馬車しかないから、もちろんミズキは、こんな立派な車も初体験だ。
 霧に包まれた都ジャパオをミズキは狭い車の中で揺られながら観察する。整備された道は広くて大きく、両脇に、赤いレンガで造られた背の高い建物たちが並んでいる。お店もたくさんだ。
 ――サンシ村には無いものばかり。王都ってすごいな。

 五分ほど走って、車は目的地に到着した。ガガガ、と、音を立てて開いた黒くて厚い鉄筋の門扉をくぐると、ツヤのある石が敷き詰められた長いアプローチがあり、その先は幅のあるエントランスになっていた。
 ――うわあ、まるで、お城のようなビルだ。
「ここは王城だよ」
 と、モリが説明をした。そう、ここはビルのようなお城なのだ。
 中に入ると警備の兵士が二人、足早に近づいてきてモリに敬礼した。
「ご苦労様です。国王様が、少年と二人きりで話がしたいとおっしゃられています」
「そうか。ミズキくん鞄を預かろう」
「あ、ありがとうございます」
 頭を下げて、鞄を預け、ミズキは壮麗な城内を、二人の兵士に連れられ進んでいく。  そんなミズキの後ろ姿を見て、モリは何故か辛そうな顔をし、呟いた……
「はたして、本当にこれでよかったのだろうか?」

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【蛇王】

「国王様は、この先の謁見の間におられる。ここから先は一人で向かうように」
 兵士は機械的な口調で伝えるべきことだけを伝えて、ミズキに背を向けた。心細く思いながらも仕方なくゆっくりと赤絨毯の上を進んでいくと、洗練され、ディテールの凝った彫刻が施された、金色に輝く優美な観音開きの扉の前についた。
「すー。はー」
 いつに無い緊張をほぐすための深呼吸の後、ミズキは金の扉を両手で押す。と、扉は軽い手ごたえで音も無く開いた。
 瞬間。ビリビリ、と、体中に電流が走ったように感じてミズキは硬直する。
 彫りの深い威厳のある顔立ちの国王は玉座に深く腰掛けミズキを凝視していた。
「扉を閉めてもらえるかね?」
 ミズキは、びくり、と、痙攣し、慌てて扉を閉めた。
 国王の声は、見かけからは想像も付かない、しゃがれて、くぐもった低い声だった。
 国王の視線にミズキは射竦められる。厳かな雰囲気の漂う謁見の間で、ミズキが感じたことも無い威圧感を放つ国王は、ピクリとも動かない。ミズキの方は動くことが出来ないでいた。
 しばらくして、ようやく国王が口を開いた。
「少年よ。お前はサーペントスレイヤーか?」
「……っ」
 喉がカラカラだ。国王の問いに答えようとしているのに、声が出てくれない。
 長い間が空き、再び国王が問うた。
「サーペントスレイヤーか?」
 やはり、声を出すことは出来なかったが、硬直した体で、何とか頷くことだけは出来た。
「サーペントスレイヤー!」
 頷いたミズキを見た国王は、突然そう叫びながらものすごい形相になり、立ち上がった。
 驚いたミズキは、思わず腰を抜かしそうになる。
 国王の瞳が、紅く光る。
 ぞわっ。と、ミズキは、総毛立った。
 ――国王はサーペントに取り憑かれている――
 軍服の男、カイの言葉が脳裏によみがえる。
 ジリ……ジリ……と、国王は数十センチ前進した。ミズキを睨み付けたまま……
「残念だ……」
 国王はそう言った。そして、ようやくミズキから目を逸らし、視線を下にする。
「君には、我々の邪魔が出来ぬように、人類の滅亡の日まで、地下独房で過ごしてもらわねばならぬようだ」
(邪魔? 人類の滅亡? 地下独房?)
 国王が何をしようとしているのかは、ミズキにはわからない。分からないが、今は逃げなければならない。ただ、そう思ったミズキは、すばやく半回転し、扉の取っ手を握った。
「動くな」
 ビクッ! とし、ミズキは、魔法をかけられたみたいに動けなくなった。
「勝手な動きをすれば、その喉元、噛み千切るぞ」
「っ!」
(どうして、僕、こんなところに来てしまったんだろう?)
 ミズキは涙で瞳を潤ませる。足が、ガクガクと震えだし立っていられなくなってその場にへたり込んだ。
 ミズキを見る国王の瞳に、ほんの少し哀れみが宿る。
「仕方が無いのだ。お前がサーペントスレイヤーだから」
 サーペントスレイヤーに好きで生まれ付いたわけじゃない。ミズキは、ただ、ただ頭を振り続けた。そんなミズキに、国王は淡々と言い放つ。
「さあ、来い。地下に案内しよう……」
 その時、突然、けたたましく警報のベルが鳴った。
「何事だ!」
 驚きを隠さず、国王が叫んだとき、粉砕音とともに玉座の後方にあった、大きなガラス窓が割れた。いや、割れたのではなく、何者かが割ってこの場に侵入したのだ。
 ミズキは恐怖も驚きも忘れて立ち上がった。
「カイさん!」
 侵入者は、あの軍服の男、カイだった。カイは腰の剣を抜き放ち国王に向かって構える。
「くっ……」
 国王は忌々しげに顔をゆがめた。カイは叫ぶ。
「ミズキ! 来い!」
 ミズキは、ほとんど反射的に走り出した。国王は、カイに向かって一直線に駆けるミズキの腕を手を伸ばし掴もうとする。カイはその国王に向けて剣を投げつけた。
 ヒュウン! と、風を切り、唸り声を上げて迫りくるカイの剣を、国王は飛び退りよける。
 ビィィィィィン! と、剣は、床の四角い石と石の間に突き刺さった。その隙にミズキはカイにたどり着き、カイはミズキを抱えて、同じ窓から出て行った。
「国王様!」
 扉の向こうで、兵士の声がした。
「不法侵入があったようです! ガラスの割れるような音が聞こえましたが、ご無事ですか? 国王様!」
「遅い……!」
 王は唇をかみ締め、呟いた。そして、声を荒らげ、
「私は無事だ、侵入者は、もう逃げた! とっとと追え!」
「はっ……はっ!」
 兵士は慌てて去っていった。国王は、よろけて玉座に手を突く。
「く……何故、何故だ?」
 国王は目に見えて懊悩する。
「あのような幼いものまで、サーペントスレイヤーだと言う……」
「何故だ!」
 そして叫ぶ……
「サーペントスレイヤー!」

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【カイ】

 ミズキを抱えて、飛び降りたカイは、そのまま高い塀も乗り越えた。そして、運よく通りかかった辻馬車に乗り込み、後ろを振り返ってみる。追っ手が来る気配は無い。
 国王があのようでは、統率が、うまく取れていないのだろう。ふと、ミズキとカイの視線が合う。
「ご……ごめんなさい! 僕……」
 頭を下げたミズキにカイは相変わらずの淡々とした口調で言った。
「いや、私の説明不足のせいだ……だが、これで分かっただろう? 国王はサーペントに取り憑かれている」
 すごく恐ろしかったことを思い出し、ミズキは俯いたまま涙を流した。カイは、そんなミズキの背をゆっくりと撫でてくれた。そして、揺れる馬車の中、ミズキに色々なことを話してくれた。

「十年前だ。
 グライヤ中のサーペントスレイヤーが集められ、謁見の間で国王の前に並ばされた。
 私は、元々国王軍の一員で、その時、初めてリュスイ、お前の父に会った。
 その場で、サーペントスレイヤーたちは驚愕の事実を知らされたのだ。
 それは、目の前にいるのはジャパオの王ではなくサーペントの王であること、そのサーペントの王は人類を滅ぼすつもりであること、そのためには我々サーペントスレイヤーの存在が邪魔になる、ということだった。
 それを聞いた我々は、必死でその場から逃げ出した。だが、幾人かは捕らえられたと思う。
 私は偶然、リュスイと同じ方向に逃げた。リュスイは、家族に危害が加わるのを恐れ、村には戻らないと言った。私は元々戻る場所など無かったから行動を共にし始めたのだ。
 旅の途中、私は、お前たち家族の様子を何度か観察に行き、近況をリュスイに報告していた。本人は遠くからでも、お前たち家族の姿を見てしまえば、心が折れそうになるからダメだと言っていたからだ。
 私とリュスイは、サーペントの被害にあっている町や村に赴きそれを退治し報酬を貰って生活をしていた。いつか、サーペントが滅び去ることを願いながら……。
 そのうちに、仲間も増えた。
 そんなある日。四年ほど前だ、リュスイが、サーペントの吐き出す毒に侵されたのだ」
「え? 父さんが……」
 ざわざわ……と、ミズキの胸は騒いだ。カイはこくりと頷いた。
「ああ、そうだ。今では毒が全身に回り言葉を発することすら辛いはずなのだ……だが、十歳を迎えたサーペントスレイヤーが王都からの使者に連れて行かれている。と言う事実を知ったリュスイは、ミズキが今年その十歳を迎えることを思い出し、お前を迎えに行くために、全力で走ったのだ。それこそ、倒れるまで……」
 ミズキは目にいっぱい涙を溜め、カイの腕を掴んだ。
「父さん! 父さんはっ!」
「大丈夫だ、意識もしっかりとしている……今は、サンシ村から山をひとつ隔てたところにある『ミキシカル』と呼ばれていたサーペントに壊された町の教会で体を休めている」
「ミキシカル……サーペント……」
 サンシ村の近くで、サーペントに破壊された町があったなんて、ミズキは今の今まで知らなかった……だけど、そこに父がいる。やっと会えるのだ。
 ミズキの胸は自然と高鳴った。会ったら、まず、何から話そうか?

 パカラ……パカラ……パカラ……リズミカルに馬蹄の音が響く。馬車は心地よく揺れる。
 今までの緊張がとれ、疲れが一気に押し寄せ、ミズキは深い眠りに落ちた。

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【父子】

 民宿や食堂などでの休憩も挟みつつ、ミズキとカイは馬車で揺られて丸二日。ようやく、ミキシカルに到着した。二人を降ろして馬車はもと来た道を去っていく。
 ミズキは辺りを見回した。
 淡い光に包まれた瓦礫の町。風は砂埃だけを運ぶ。
 人の気配はまるでしない。皆、どこかに越したのだろうか?
(サンシ村にそういう人たちが入ってきたと言う話は聞いたこと無いけど……もしかして、全員、サーペントに……)
(いや、そんなこと考えちゃいけない)
 ミズキは、ふと、脳裏に浮かんだ最悪の結末を振り払うかのように、頭をぶんぶんと、振った。
「こっちだ……」
 そう言って、カイは、すたすたと歩き出す。
「あっ……はい」
 足場の悪い町を、ミズキは、何度もつまずきながらカイの後を追った。

 ――アハハハハハハ――
 幻聴だ……
 数年前まではこの町でも、あたりまえのように聞こえていたはずの笑い声。瓦礫の中に埋もれた生活感を漂わせる家具やキッチンは、突然起こった惨事を想像するのには十分過ぎるアイテムだった……
 そして、また……
 ――アハハハハハハハ――

「ここが教会だ」
「え?」
 立ち止まったミズキの前に現れたのは、想像していたものとは違う、剥き出しの教会だった。
壊れて、砂埃にまみれた礼拝室。椅子も祭壇もわずかに形を残しながらそこにある。美しい微笑を湛えた盲目の月の女神像も、ひび割れ、砂埃に包まれ、傾いていた。
 カイは無言で、奥へと進んでいく。ミズキも慌ててついていく。右袖廊の突き当たり、月の女神の肖像画の前にある、下りの階段を、カイに続いて、ミズキは恐る恐ると下っていく。
 カイは、階段を下りてすぐの小さな木製の扉を開けた。
 ガタン……と、中から音がした。
「なんだ、カイさんか」
 そう言って、中にいた一人の少年が警戒を解き、誇りっぽいテーブルに腰掛けた。少年といっても、十六、七くらい。ミズキより随分年上のように見える。
「ミズキ、仲間の『エン』だ」
 カイはミズキに、その少年をごく簡単に紹介した。「エン」と呼ばれた少年は、無遠慮にミズキをじろじろと観察している。
 エンの髪は日に焼けて赤茶けた短髪で、皮膚も小麦色に焼けている。少し幼さの残るその顔で印象的なのは、つりあがった目だろうか。いでたちは、素足に白い鼻緒の下駄。首には、また白いスカーフ。ボロだが、髪に負けないくらいの真っ赤な、袖の無い身頃だけで丈が膝より少し長いくらいの着物一枚を着崩している。変わった格好だ。
「こんな、ナヨっちい奴がリュスイさんの息子だなんて冗談だろ」
 エンが皮肉っぽく言った。
 むっとして、ミズキはエンを睨み付ける。
「仲良くしなくちゃダメじゃない」
 少女の声。ミズキは気づかなかったが、その狭い部屋の片隅に少女が立っていた。
 インパクトのある大きく力強い瞳は朝露のように濡れて輝き、真っ赤な唇は香り立つ蕾のようで、腰まで伸びた緑の黒髪に雪のように白く透き通った肌。保護本能をそそられるほど細身の彼女は十四か、十五歳くらいに見える。
 服装は、白い足首に巻きついた黒いリボンが蠱惑的な、銀色のサンダルを履き、フリルやレースの付いた黒のノースリーブのインナーに、紅いベルト、黒っぽいデニム地の五分丈のパンツ。その上に薄い素材の白いトレンチコートをふんわりと羽織っている。
「彼女は『メイビ』という名だ」
 やはりカイは簡単に紹介を済ませた。
 メイビの真っ直ぐな瞳に見つめられると、ザワアァ……と、胸が……体中の血管が騒ぎ、頭がのぼせるような感覚があった……頬が熱い。なぜか、いたたまれなくなってミズキは目を逸らした。
 まだ鳴る胸を押さえ、ミズキは部屋を見回した。
誇りだらけのその部屋は、今、エンが腰掛けている木製の丸テーブルと数脚の椅子に、小さい食器棚と、かまどに流し台があるだけで父はいなかった。
「リュスイは、そっちの部屋だ」
 カイは指差す。
 メイビの、もたれている壁の右手側。外れかけた木製の小さな扉。
 と……ん、と、カイに背を押されミズキは戸のほうへと歩みだし、そっと、取っ手を握る。
 怖いような……嬉しいような……安定しない感情が、ミズキにめまいを起こさせた。
「何してんだよ、アイツ」
 エンが、扉の前で逡巡しているミズキの背中を半眼で見ながらそういった時、その扉が、ガタン、と音を立てた。ミズキが、取っ手から手を離し数歩、後退すると……扉が外れた。
「あ……」
 ミズキの真正面に少し顔色の悪い長身の男が姿を現した。男は、よれよれのシャツにズボン。無精ひげがあり精悍な顔つきで、がっしりとした体躯を、やや前傾姿勢にして立っている。
 男は、呆けたようにミズキを見つめ続けていたかと思うと、突然、その活力の無い瞳に光を宿らせた。

「ミズキ……か?」
 力強く響く声。ミズキは、ハッとする。
「父さん?」
「!」
 ミズキの幼い声が、男のどこかにあるスイッチを押したのだろうか? 男は、発作的にミズキを引き寄せ、抱きしめる。
 強く……強く抱きしめる。
「……キ。ミズキ……!」
「……っ! 父さん……父さん!」
 こらえようも無く、ミズキの瞳から千行の涙が流れ出す。
「うっ……うっ……」
 ミズキは自他ともに認める泣き虫だが、どうあってもとめることの出来ない涙に出くわしたのは初めてだった。
「ミズキ……!」
 聞いたことの無いはずの父の声が、なぜか、ミズキの耳に懐かしさを持って響く。
 そして、浮かぶ……送るはずだった。送ることが出来なかった。懐かしい景色。家族の団欒。
 心の奥底に眠っていた、ミズキの父に対する思慕の情があふれ出す。
 父は、細いミズキが壊れてしまいそうなほど力いっぱい抱きしめ、髪の柔らかさ、頬の感触を確かめる。そして、ミズキは父の腕の中で、母には無い力強さと、その香りを確かに感じていた。
(父さんの匂いだ……)
 初めて会った父子の間に、言葉など要らなかった……

***

 いつまでそうしていたのだろうか?
 カイたちは、気を利かせてくれたのか、いつの間にかその場にいなくなっていた。
 ミズキは、お陰で思う存分父を独り占めできた。父の冒険譚を聞き、共に食事をし、隣で眠りに付いた。ここに母や姉がいないのが残念だが……

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【大図書館の老人】

 チュピチチチチ……鈴の音のような歌声。こんな壊れた町でも、雀は鳴くらしい。
 元教会の地下での朝食中、カイは口を開いた。
「リュスイ。グライヤ最古の大図書館は知っているか?」
「『ロフェイスの大図書館』だな」
 と、リュスイが答える。
 リュスイは、髭を当たり、爽やかな薄水色のカッターシャツを腕まくり、クリーム色のズボンをはいて昨日とは打って変わってさっぱりとした印象になっていた。
「ああ。そうだ」
 と、カイが頷くと、エンが口を挟んだ。
「ロフェイスの大図書館がなんなんだ?」
 メイビは可愛く首をかしげる。
「ロフェイスの大図書館?」
 ミズキに会って気力が湧いてきたのか、顔色もよくなったリュスイは穏やかに微笑んだ。
「ロフェイスの大図書館は、今、カイが言ったようにグライヤ最古で最大の図書館だよ。少し大きめの町ほどの大きさを有していて。いや、『ロフェイス』というのは町の名だが、町そのものが図書館なのだよ。そこにはグライヤのすべての書物が収められている」
「だーかーらー。それがどうしたんだよ。オレは、活字は嫌いだぜ」
 そう言って、塩漬けされた馬肉をほお張るエンを、とりあえずは、無視してカイは、話を続ける。
「ミズキと、この町に向かっている途中で一泊した宿で、同宿の旅人に聞いたのだが、その、ロフェイスの大図書館には、博覧強記の翁が住み着いているというのだ。真偽のほどは分からないが、確かめる価値はあると思うのだ」
 リュスイは、深く頷いた。
「なるほど。そのご老人ならば、サーペントの王を退治する方法も、存じてらっしゃるかもしれない。というのだな」
 カイは軽く頷く。
「ああ。ロフェイスは、偶然にもここから近い」
 リュスイは、隣で朝食をとる息子に顔を近づけ語りかける。
「ミズキ。疲れてないか?」
「うん。大丈夫だよ」
 口の中のソラマメの水煮を飲み込んで答えたミズキを見て、リュスイは、父親の優しい眼差しになり微笑む。
「そうか、じゃあ、早速、朝食の後、ロフェイスに向かうか……」

***

 風と光に包まれた、砂まみれの教会の礼拝室で、リュスイは、帯剣用のベルトを腰にして、剣を佩く。
 そんな父の背中にミズキは見惚れていた。

「ミズキ」
 カイは、ミズキに呼びかけて、一本の剣を差し出した。
「それには、私とリュスイの力がこめられている。お前のような未熟なサーペントスレイヤーでも、サーペントにあてることさえできれば致命傷を与えることも可能だ」
 鞘に収められたその剣は、細身だか、ずっしりと重く思わず落としそうになるのをミズキは慌てて握りなおす。
 そして、ふと、カイを見上げた。
 カイをよく見てみると、その切れ長の目に穏やかな光を宿していて、一見冷酷そうにも見える涼しげな顔立ちの裏に、彼の優しさが隠れているようだった。
 満月の夜に会ったカイは、恐怖そのものでしかなかったが、今ミズキは彼に親しみさえ感じていた。
 キン……。ミズキは剣を鞘から少しだけ覗かせ。キン。また戻した。
「ねえ、この剣は誰にでも使えるものなの?」
 ミズキの問いにカイは答える。
「ああ……サーペントスレイヤーは、その力を物質に宿らせることも出来る。普通の人間でも、それを使って、うまくいけばサーペントを傷つけることが出来るだろう。だが、力は物質にとどまり続けることは無く、使えば消耗する上に、絶えず外に流出し続けている……つまり、あまり使えない、ということだな」
「オイ。行くぞ、泣き虫!」
 エンが、言った。ミズキは、ムッ、とする。
 エンは、ミズキをあまりよく思っていないようだ。
 リュスイは、微笑ましげに、だが、少し困った顔で呟いた。
「仲良くしてくれよ?」

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