A GRIYE BOY

グライヤの少年

グライヤの章

   ただ 駆けろよ グライヤの少年よ
           (スノーテの詩集第一巻)より

【二人の少年】

 強引に城内に侵入しようとして警備兵に捕らえられたミズキは、見ず知らずのお兄さんに名前を叫ばれ、きょとんとした顔をしていた。ハナは、警備兵にミズキを放してやるように指示する。そしてミズキに近づき、いつもの笑顔で声をかけた。
「初めましてミズキくん。モリさんが心配していますよ」
 モリの名を出したのは正解だった。ミズキの警戒心が解ける。ハナは微笑を絶やさずに言う。
「私は、城の関係者でモリさんの知り合いです。あなたのことも聞いています。よければ力になりますよ?」
「本当ですか!」
 素直に喜ぶミズキを見て、ハナは笑顔で頷く。
「ええ。勿論……その前にお茶でもしませんか?」


 これであっさりと誘拐成功。今、二人の少年は、王都の喫茶店で向かい合っている。観葉植物がたくさん置かれている白が基調の小奇麗な店内。二人分のミルクティー。
「あっ……あのう……」
 おずおずとハナの顔をうかがうミズキに、ハナは、お兄さんらしく穏やかに微笑んだ。
「『王様に用がある』と、叫んでいたよね? 用って何かな?」
 ハナが問いかけると、ミズキは身を硬くした。いくら心細かったとはいえ、いくら優しげな笑顔を向けてくれたとはいえ、見知らぬお兄さんに、のこのことついて来た自分に今更ながら、後悔しているのかもしれない。
「えっと……」
 口ごもるミズキに、ハナは、楽しそうな笑みを見せ柔らかな声色で問う。
「甘いものとかほしくない?」
「いえ……」
 ミズキは目を伏せた。ハナは笑みを絶やさない。
「実はね、お兄さんも、今日は王様に会いに来ていたんだよ。ど〜しても聞きたいことがあってね」
「聞きたい……こと?」
 興味をそそられたのか、ミズキは、顔を上げ問う。ハナは、大げさに頷き、
「そう『あなたはサーペントですか?』ってね」
「えっ!」
 やはり、一度国王と対面しているミズキは、その言葉に反応を示した。
 ハナは、ミズキが自分に関心を示していることを見て取ると、サラリと話題を変えた。
「モリさんがね。それが正義と信じていたとはいえ、幼い君を村から連れ出したことを反省しているようだったよ……そして、突然いなくなった君の事をとても心配している」
 ミズキに動揺の色が浮かぶ。ハナは気づかぬ振りをして、また笑みを作った。
「モリさんは、戻ってきてほしいとは思っていないのだよ。お兄ちゃんも、戻らなくてもいいと思う。でも、君は戻ってきた……何でかな?」
 ミズキは、目の前の人物が信用してもいい人間なのどうか、思案しているようだった。幼い割には、意外に警戒心が強い。ハナはそう思った。
 ミズキは、しばらくして、ゆっくりと話し始めた。
「僕……あの……ロフェイスの大図書館に入りたいのです……」
(ロフェイスの大図書館。なるほど、それで……)
 得心がいった。あそこを使用するためには、王家の証か、王からの使用の資格の許可証が必要だ。
「再び国王の前に姿を現す危険を冒してでも?」
 ハナの問いに、ミズキは下唇を噛み、苦悩の表情を浮かべる。
「お兄さんは、知っているんですね? 王様にサーペントが取り憑いちゃっていること……」
 なんか、可愛い。と、ハナは思った。弟がいたらこんな感じだろうか? ハナが、ミズキの問いに微笑みで返すと、ミズキはハナに心を開いたようで、その感情を吐露しだす。
「バカみたいだって、思いますよね。でも、僕には、これしか浮かばなくて……これくらいしか出来なくて……!」
 やっぱり可愛い。と、ハナは思った。
 ミズキくんが何をしようとしているのか、何を考えているのかよく分からないが、今はいい。とりあえず、この子に協力してあげたい! と、兄弟のいない王子は、強くそう思った。ハナは優雅な動作で立ち上がり、にこやかに言う。
「わかった。じゃあロフェイスへ行こうか」
「……え?」

 ミズキとハナは辻馬車で、病み疲れた空気漂う工業地区を突き進んでいた。覇気の無い表情。無気力な瞳。町を歩く人たちは皆、同じ顔。
 二人はロフェイスに向かっている。勿論。砂漠は馬車でも車でも進めないから、砂漠から一番近い町、サーペントに壊された町の『ミキシカル』までの道のりとなる。
 ミズキは隣で揺られる年上の少年を横目で盗み見る。
 はっ、と、するほど美しい横顔。彼は、王都の喫茶店で「誰にも言っちゃダメだよ?」と、念を押し、ミズキに己の素性を耳打ちで明かした。
(王子様)
 言われてみて見れば、なるほど王子様にしか見えない。疑うのも失礼なほどの、気品ある顔立ち。
 不意に視線に気づいたハナと目が合う。微笑まれ、少し、照れくさくなった。
 優しい笑顔が、父親を思い出す……などといったら、どんな反応が返ってくるだろうか?
 ふと、ミズキは、あまりにも当たり前なことに気がつく。
(王子様。ということは、王様の子供だ)
 国王はサーペント。王子は?
 不安げなミズキの視線に気づいた様子のハナは、穏やかな口調で言った。
「俺は、普通の人間だよ。安心して……」
 不安をぬぐうために言ってくれたセリフのはずなのに、ミズキは逆に心配になる。
「いっ! いいんですか? お父さんがサーペントに取り憑かれちゃっているのに、僕なんかに付き合ってくださって」
「いいんだよ。俺がその事実を知ったのは今日の今日。それに、それを知ったからと言って、今の俺に出来ることなんて特に無い……だから……いいんだよ」
 柔らかい笑顔のハナ。ミズキの目から涙が零れ落ちる……あまりにも突然の涙にハナは動揺の色を見せ、心配気に声をかける。
「ど! どうしたの?」
「く……苦しいですよね……お父さんが……そんなっ……つ……辛いのに……」
 自分の父親のことをミズキは思い出していた。
 止まらない涙を懸命にぬぐっているミズキの頭をハナは、ぽんぽん。と、軽くたたく。
「辛いというよりも、悔しいよ。何も知らなかった自分が……何も出来ない自分が……」
 一瞬、本当に悔しそうな顔をしたハナを、ミズキは何とかしてあげたいと思った……初対面の、なんとなく不思議な雰囲気を持つ優しいお兄さんを……

 ミキシカルは、まだ先。グライヤに、夜の帳が下りる。
 二人は、工場の多い入り組んだ町の、大通りに面した小さな宿屋に宿泊する。夕飯も済ませ、ミズキは、簡素な部屋のベッドの上で横になり、形見の剣を抱きしめて、うとうとし始めていた。
「ごめん。ミズキくん。いいかな?」
 耳元で響いた心地よい声でミズキは、眠い目を上げる。ハナが申し訳なさそうな顔をした。
「寝ていた?」
 ミズキはむっくりと起き上がり、ふるふる。と、頭を振った。同じベッドにハナは腰掛ける。
「ミズキくんは、ロフェイスで何を調べたいの?」
 ぱちり。と目が覚めた。ミズキは、移動し、ハナの隣に座る。
「……あそこには、すごく物知りなおじいさんがいるって、聞いたんです」
 ミズキは、カイとの出会いから父との出会い、そして、サーペントと戦ったところまで、しどろもどろと、話した。
「これは、その時、サーペントを仕留めた父の剣……形見の剣です……」
 ミズキは、剣を握り、前に突き出す。悲しげな瞳で、ハナはそれを見つめる。
「そうか……大事な剣……なんだね」
 ミズキは、目を伏せた。
「ごめんなさい。こんなこと聞きたいわけじゃないんですよね」
「そうでもないよ。君がどれほど強い思いで、どんなことを知ろうとしているのか、それを知らないと……王家のものとしてロフェイスの大図書館へ君を連れて行くわけだからね。それだけの責任があるのだよ。だから、話して……」
 幼子をあやすような、優しい口調でそう言ったハナの言葉を信じ、ミズキは、語りだす。
「僕は……戦い以外の解決方法が知りたいんです。同じグライヤに住むもの同士、争わなくっちゃいけないなんて……すごく、悲しいから……」
 反応が返ってこない。ハナは、黙している。
(怒っているのかな?)
 怖くなって、ミズキはハナの顔を見ることが出来ない。
 エンは怒り心頭して、こう言っていた。
 ――あいつらには、感情なんてねぇ! ただの害獣だよ!――
 あの時のエンは、ミズキに殺意を抱いているようだった。ハナ様も?
(怖い!)
 それでも、震えながらも、自分の意思をハナに伝えることをやめない。やめてはいけないと思った。逃げたくないから……
 ミズキは勇気を振り絞って、思いを口にする。
「……サーペントが暴れだすのには、きっと訳があると思うんです!」
 やはり、反応が返ってこない。居心地の悪い間が開く……と、
「すごいね。君は……」
「え?」
 ミズキは恐怖も忘れ、思わずハナの顔を見た。いつもの微笑みは消えている。でも、怒っているようには見えない。
「すごいよ。君は」
 ハナは、もう一度同じことを言った。ミズキには、そう言ったハナの真意がさっぱり分からない。
(すごい? って、何が?)
 ミズキはただ、きょとん、と、ハナの顔を見つめている。ハナは少し情けなさそうに笑った。
「俺は、そんなこと、考えたことも無かったよ。サーペントが暴れる理由なんて」
 そして、伸びをしながら布団に寝転がり、己を皮肉った。
「ああ〜。やっぱりダメだな。温室育ちの王子は!」
「そっ! そんなことないですよ! 僕は、ハナ様が頼りなんです!」
 顔を覗き込み、必死で励ますミズキの頭を、ハナはじゃれるように掴んで布団に、ボフッ、と、押し付ける。
「本気でフォローする奴がいるかミズキ! ちょっと、反省していただけだぞ」
 嬉しそうですらある声で、ハナはそう言った。ミズキは顔を上げ、慌てて詫びる。>
「すっ! すみません! 僕……そういうつもりで……」
「ふっ」
 ハナは、愉快そうに顔をゆがめる。
「え?」
 本当なら会うことすら叶わぬはずの、貴い存在、王子ハナの言動は、ミズキにはさっぱり読めない。ただ、ぽかん、と、口を開けているミズキを、ハナは慈愛深い眼差しで見つめて、言った。
「……嬉しいものなのだね……頼りにされるのって……」

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【騒ぎ】

 気だるさ残る目覚めたての体を、ミズキはゆっくりと起こした。グライヤは変わらぬ朝を迎えている。そういえば、ミズキがサンシ村を出てどれくらいになるのだろう? あの時は、まさか王子様と旅をすることになろうとは思いもしなかった。その王子様は、すでに目覚めていたらしく、どこへ行っていたのか、今、部屋に戻ってきた。
「ミズキ。おはよう朝食まだだろう? 俺はもう済ませた。外が騒がしいのが気になるから行ってくる」
 よほど外の様子が気になるのか、気が急く王子は、早口でそれだけのことを言って、また部屋から出て行った。
「ん〜」
 ミズキは伸びをし、耳を澄ませる。「ざわざわざわ……」言っている。
「ほんとだ。なんか騒いでいるみたいだ……」
 気になったミズキは、水差しから洗顔ボールに水を注ぎ、顔だけ洗って、食事もとらずに外へと飛び出した。

 宿を出たミズキは、辺りを見回す。騒がしいのは大通りではなく、路地に入ったところのようだ。たまたま目の前を通り過ぎた、おじさんの後をミズキは追った。何か、聞こえる。
「我々は、はたして、豊かな人生を手に入れたか?」
(豊かな人生?)
 声のほうへと進むと、ハナがミズキに気づき、手を振った。ミズキは走って、ハナの隣、野次馬の中に混じった。
「何ですか?」
 簡単な問いにハナは首をかしげた。
「さあ。今始まったばかりだし。よく分からないなあ」
 野次馬に囲まれ、雑多で不衛生な町の、ある小さな工場の前に陣取り、六人の男たちは何かを訴えている。その六人にどのような共通点があるのか、見た目では知れない。スーツでピシリと決めたもの。汚れてよれよれの服を着たもの。さまざまだ。
 頭をなでつけた紳士は背広を脱ぎ、頭上で振り回しながら言う。
「産業革命後、我々は、死者が出るほど繁劇になっただけだ!」
 スーツ姿の小くの男は胸に手を当て、熱く語る。
「それまで、我々人類は皆、豊かであった。心が! 日々が!」
 破れたワイシャツを着た、見目良い男が熱っぽい口調で言う。
「だが! 今はどうだ? 私は貧しい! 心が! 日常が!」
 ミズキの後ろの野次馬がつぶやいた。
「反政府のタカ派の奴らだ」
(反省婦の宝のヤツラだ?)
 大人の言葉。ミズキには、まったく意味が分からなかった。
 タカ派と呼ばれた男たちは、まだ続けている。汚れた服の長髪の男は熱弁する。
「その昔。我々グライヤの民は、日々歌い。踊り。その中で働き。たらふく飲み。たらふく食った! なのに何故、このようなことになったのか!」
 三つ揃いを着た額際の広い、丸顔の男は、両手を天にかざし思いの丈を叫ぶ
「自然に逆らったためだ! 砂漠化が進むのも! 井戸が涸れるのも! 全て! 自然に逆らったためなのだ!」
 粗衣の乱髪で白皙の男は、細い目をいっそう細め、涙ながらに訴える。
「もう終わりにしましょう! おろかな行いは! 自然に耳を傾けるのです! ……聞こえます……苦しい……と……空は! 大地は、苦しいといっているのです! こんなものがあるから!」
 男は、言った後、用意してあった巨大なハンマーを振り回し、工場の壁を叩き壊す。
 ガアアン! 激しい音に、ミズキはビクリとした。残りの五人の男たちも各々の武器を手に工場を破壊していく。
「なっ! 何しているの? あの人たち」
 大人の事情? ミズキにはさっぱり理解できない。
 ガアアン! ゴオオン! ドゴッ! メキィ! 破壊音が次々と起こる。
「やっ! やめてくれぇ!」
 工場の持ち主なのだろうか? それとも従業員なのだろうか? 麻のシンプルな服を着た、細身の男が斧を振り回す頭をなでつけた紳士風の男の右足にすがりつき、わめいた。
 すがりつかれた男は、眉を寄せ、不快感を露にする。
「っ! くそ! 邪魔をするな!」
 すがりつく男を、紳士風の男は蹴り飛ばそうと、左足を振りかぶった。
「やめろ!」
 そう言って、哀れな男が蹴り上げられる寸前。乱暴を働こうとした、紳士風の男の胸倉を荒々しく掴み、引き寄せたのは、王子ハナ。
「ああ! ハナ様!」
 ミズキは目を見張った。いつの間に移動していたのだろうか? 胸倉を掴まれた紳士風の男と、ハナは冷ややかな目で睨み合う。
「邪魔を……しないでもらおうか? 少年」
 落ち着いたはっきりとした声で、男は言った。ハナは、男を睨め付けたまま、低く通る声で言う。
「罪の無いものを苦しめても、何も変わらないだろう?」
 カッ! と、した男は手にしていた斧を捨て、胸倉のハナの手を振り払い、殴りかかる。
「罪がないだと? こいつらは公害を引き起こしている!」
 ハナは、向かってきた男の拳を左手で払い、自分の脇によろけた男を再び掴み、睨み付けた。
「だからって! 暴力を振るっていい理由にはならないだろう!」
 掴まれた男の仲間の、汚れた服の長髪の男は、その横からハナに殴りかかってきた。さすがに、かちん、と、きたのか、ハナは、それを避け、反撃を試みる。すばやい動作で長髪の男の胸にハナが拳を突こうとしたその時、とっさにミズキは叫んだ。
「ハナ様! ダメ!」
 瞬間に、冷静さを取り戻した様子のハナは、
「その通りだ!」
 と、言いながら、両手を広げ、殴ろうとしたときの勢いのまま、男を抱きしめた。
「うっ!?」
 奇妙な声を出した男をハナはすぐに突き放し、親指をつきたてて幼子を叱るように優しくも厳しさのある声で言う。
「めっ!」
「………………」
「………………」
 男は……野次馬も、男の仲間たちも、勿論ミズキも……ハナの珍妙な言動に呆気にとられ、ただ立ち尽くす。
「………………」
「…………………………」
「じっとしていろ!」
 沈黙を破ったのは、
「町兵だ!」
 目ざとい野次馬の一人が言った。四、五人の町兵は、朝も早いのに、きちりと武装して駆けてくる。残る野次馬。逃げる野次馬。騒ぎの元凶たちは町兵とやりあうつもりか、腕まくり。
 状況に、ただ、おろおろするミズキの腕を、誰かが、ぐい、と、引っ張る。
「行くぞ。ミズキ」
 そう言って、ハナは取ったミズキの腕を引っ張って大通りの方へと突っ走っていく。  背中越しのハナの肩がかすかに揺れているのに気づく。
(わ……笑ってる?)
 ハナは笑っている。一瞬目を疑ったが、間違いない。笑っている。
(この人……! 変な人だ!)
 そんなハナをミズキは不安にも、そして、何故か頼もしくも感じていた。

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【理由】

 騒がしい町を出発して、二日後の昼過ぎ。ミズキとハナは、砂埃にまみれた廃墟の町ミキシカルに到着した。ミズキはハナに説明する。
「ここから先にある。砂漠を二時間くらい歩くとロフェイスに着きます」
「いいの?」
「え?」
 ミズキはハナを見返す。寂しい町の址をハナは切ない瞳で見つめている。

 この町で、ミズキは求め続けていた父と初めて会って触れ合った。そして、この先の砂漠で親子はまた無常にも引き離されたのだ。ハナの、「いいの?」は、どういう意味かよく分からないが、少し、立ち止まることを許された気がして、ミズキは、町のほうへと歩を進めた。
 ……短すぎた。求め続けていた日々に反して……
 だけど、それは、あまりにも強く、ミズキに影響を与えた。
「強い希求は 獲得の喜びをこの上ないものにする だが 喪失の絶望を言い知れぬものにする」
 ミズキは、はっとして、振り返る。
「ある、作家の言葉だよ」
 切なげな表情で言うハナは、確りとそこに立っているミズキよりも、心もとなげですらある。
 ハナはミズキを見つめたまま問う。
「どうして? ……どうして、ミズキはここにいる?」
 哲学的な問いではない。不思議な問い方だが、ハナが何を聞きたいのか、ミズキには理解できた。ただ、答え方がよく分からない。
「分からないけど……僕は、本当は、動かなくなったお父さんを引きずって、サンシ村に帰ろうと思ったんだ……お母さんと二人のお姉ちゃんが待っているサンシ村に……でも……」
 ミズキは瞳を閉じ、手にしている形見の剣を強く握る。
「でも……お父さんの言葉……遺言が……ずっと……ロフェイスで夜をすごしたときも、霊送りの儀のときも、今だって……ずっと、お父さんの声で、ほかの事を考えているときだって、ぐるぐるぐるぐる、繰り返されていたんだ……『ミズキ……何が……前に、立ちはかろうと……大丈夫。進みなさい……ミズキの信じる……正義を貫きなさい…………見守っている……』って……」
 耳元で囁かれるよりも確かな響きで、こうしている今も、ミズキの頭の中で父は言い続ける。逃さず捕らえた父の言葉はミズキを突き動かす。
「正義って何か分からないし、強い思いで動いているわけでもなくて……目の前にある進まなくちゃいけない道を、逃げずに進むことが、僕の信じる正義な気がしたんだ……」
 むなしい廃墟を慰めるように吹く風は、砂を孕み、ミズキとハナに軽い痛みを与えて過ぎて行く。
「サーペントとの戦いを否定することは、サーペントと戦い続けたお父さんを否定することなんだって。ある人が言ったんだ……」
 このセリフを思い出すたびに、意思に反して、涙がこみ上げてくる。ミズキはそれを、ぐっと、こらえて、涙を拭く。
「違うって、ミズキは、知っているのだろう?」
「!」
 あまりに甘く、優しい響きを持つハナの声は、切なさや、辛さとは違う涙のスイッチを押す。
「っ! ……うん……」
 ハナの言うとおり、ミズキは知っている。知っていたはずなのに、どこかで、しこりとなっていた。ハナは、なんでもない言葉で、それを溶かした。
 何も知らない温室育ちのダメ王子。ハナは自分をそう表現する。
「ダメだな。守られているだけの情けない王子は、五つも下のミズキにさえ適わない」
 また、言った。でも、それは、反省なのだとも言っていた。
「行こう。ロフェイスへ……俺も知りたいことは一杯あるんだ。一緒に行こう」
 その時見せたハナの笑顔が、彼が今まで見せたどの笑顔よりもミズキは一番好きだった。こういうのをおこがましいと言うのかも知れないけど、それは友達の笑顔だったのだから。

「砂地獄だ……」
 ハナがぼやいた。少しの木陰も無い砂漠が、希望にも譬えられる太陽を凶器に変える。ハナの防寒と日よけのための柄物の布は、ここで役に立っている。二人は、その布で仲良く薄い屋根を作りあい、同じ歩調で進む。
「ハナ様……大丈夫ですか?」
「温室育ちの割に体力には自信があるんだよ」
 ミズキの心配を吹き飛ばすような無邪気な笑顔を、ハナは見せる。
「そんなことより、そのハナ様ってのやめてほしいんだけどな」
「え? でも……何て呼べばいいですか?」
 ハナはなぜか、突然黙す。
「あの……!」
 当然、ミズキは不安に駆られた。
「うん……ハナでいい。出来れば敬語もやめてほしい……」
 そう言うハナの顔があまりにも切なかったので、ミズキは思わず腕にしがみついた。
「わかったよ! ハナ!」
 なぜか必死のミズキを見て、ハナは少し驚いたようだが、すぐに、いつもの笑顔に戻り、静かな口調で言った。
「弟がいたら、こんな感じだろうかって、ずっと思っていたんだ……」
 物心つく以前に母を亡くし、幼いうちに父から離れ兄弟姉妹もいないハナは、ミズキ以上に家族を欲しているのかもしれない。
 その時突然。ゴオオオオオオオ! と、空が鳴る。
「? 何だ? 天の割れる音か?」
 そう言って、ハナは天空を半眼で見上げた。だが、違う。音源は、
「軍用機だ……どこに行くのだ?」
 独り言の問いに、ミズキが答えた。
「あっちには月明瑞穂乃原野があるって、お父さんが言っていたよ」
「! ……そうか……もう、動き出しているのだな?」
 過ぎて行く軍用機を眺めてハナは言った。
「?」
 何のことなのか、勿論ミズキには分からない。ハナは、表情を引き締め、独りごつ。
「つまり、俺の自由行動も、あまり猶予が無い。ということなのだな」
 と、突然、地が激しく揺れた。
 ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
 と……音を立てて……嫌な予感がした。あの時と同じだ……
「何だ?」
 不思議そうにハナが言った。だが、ミズキは知っている。
「逃げなきゃ!」
 言うが早いか、ほとんど二人の目前で、砂煙を巻き起こし、そいつは現れた。
「サーペントか!」
 と、ハナが驚き、声を上げる。
 現れたそのサーペントは、小柄なほうで体長は三メートルほど、灰色の肌に金色の瞳。ミズキは、はっ、とした。見覚えがある。あのときのサーペントだ。父達とロフェイスへ向かう途中で出くわした、あの、サーペントだ! 違うのは、大きさだけ……
《ぐおああああああああああああ!》
 サーペントは天に向かって吼えた。
「お……怒っている……?」
 そうだ。怒っている! と、ミズキは確信した。間違いない。このサーペントは怒っている。
「そうか、あのサーペントは、君のお父さんなんだね……?」
「お父さん? サーペントにも家族はいるのか?」
 ハナの問いにミズキは強く頷いた。
「そうだよ! きっと! だから! お父さんが殺されたから怒っているんだよ!」
 ミズキがそう言った時、サーペントは、猛烈な勢いで頭から二人に突っ込んできた。
「っ! 危ない!」
 敏捷に、ハナはミズキを巻き込んで横に飛ぶ。ずさあぁ。と、二人はサーペントの攻撃からかろうじで逃れ、乾いた砂の上に転がる。サーペントはすぐに方向転換し、また突っ込んでくる。
「くそっ!」
 ハナは、生き物を拒否しながらも飲み込もうとする砂に足をとられながら、ミズキを抱きかかえ、必死で逃げようと走り出す。
「ぐっ!」
 ハナは呻く。サーペントの硬い額が、ハナの背中を捕らえ、抱えたミズキと一緒に、前方に弾き飛ばされ、何度か転がり、動きを止めた。
「ハナ!」
 ミズキは、慌ててハナの名前を呼ぶ。背中に受けた衝撃は、よほど強かったのだろうか?
「うぐっ……ごほごほっ!」
 ハナは苦しそうに咳き込む。
「ハナ!」
 呼ばれてハナは、手を差し出した。
「ごほっ……剣! 剣を貸せ!」
「え?」
 サーペントは牙を剥きまた向かってくる。ハナはふらつきながら立ち上がり、サーペントを睨みつける。
「戦うつもりなの?」
 不安げに問うミズキを、はっ、とした様子を見せて見返したハナは、薄目で笑う。
「無謀だな……逃げるぞ、ミズキ!」
 ミズキは深く頷き、ハナと共に走り出す。
 サーペントは、思いのほか動きが早く、砂漠になれていないミズキの背後に見る間に迫ってくる。的を絞ったサーペントは少し身をすくめ、攻撃態勢に入った。それに気づいたハナは、強く踏み切って跳び、ミズキを弾き飛ばす。
「うわ!」
 声を上げ、宙を舞うミズキの視界の端に、サーペントとハナの影が映る。
「ぐはっ!」
 ミズキを弾いたハナは、代わりにサーペントの攻撃を受け、吹き飛び、砂に叩きつけられた。
「ハナーーーーー!」
 起き上がり駆け寄ったミズキに、ハナは顔をゆがめながら、ひどく苦しげに言った。
「っ……逃……げろ……」
「っ!」
 ミズキが涙を浮かべながらサーペントを見ると、そいつは、こちらを睨んで牙を剥いている。
「やっぱり、無理なのかなぁ? 人とサーペントはわかりあえないのかなぁ?」
(声は、届かないのかな? どうしても?)
 また、エンの言葉がよみがえる。
 ――あいつらには、感情なんてねぇ! ただの害獣だよ!――
「そう……なのかな? 本当に?」
 サーペントは、またこちらにやってくる。今度はゆっくり、ミズキの動きを確認しながら……ミズキは、唇を噛み、剣を鞘から抜く。そして、鞘を捨て、ギラリと光を反射する剣を前に構えた。
 ハナは、砂の中でもがきながら、懸命に上体を起こし叫ぶ。
「ミズキ! 無理しなくていい! 逃げろ!」
 ミズキは強く首を横に振った。
「ハナを見捨てて? そんなの出来ない! 出来ないし、逃げられない。逃がしてなんかもらえない」
 そうだ、怒り狂っているあのサーペントは、二人を逃がしてやるつもりなど毛頭無い。サーペントは、進むスピードを速めていく。
「でも! やっぱり戦いたくないんだ! 聞いて! お願い! 僕のお父さんと君のお父さんは戦いあって死んじゃったけど! でも! 僕たちまで戦いあう必要なんてないんだよ!」
 ミズキは、叫ぶように説得する。
《グオオオオオオオ!》
 サーペントは天を仰ぎ吼え、大口を開けミズキを頭からかぶりついてやろうと向かってくる。
「くっ!」
(やっぱりダメなの?)
 ミズキは悔しそうに強く瞳を閉じた後、剣を握りなおしサーペントに向かって突進した。
「うあああああああああああああ!」
 ギラリと鋭く光るサーペントの牙がミズキを捕らえようとするより早く、振り上げられたミズキの剣が、プスリ、と、サーペントの喉のあたりに突き刺さった。
「あっ!」
《グオオオオオオオオオオオオオアア!》
 父が使っていた剣は、一突きでサーペントに大きなダメージを与えたようで、剣が刺さったままのサーペントは、もがき苦しみ始めた。
《ウグオオオオオオオオオオオオオアア!》
「うっ!」
 振り回されながらも、苦しむサーペントに罪悪感を覚えたミズキの、剣を握る力が緩む。
 ぱしっ! と、そんなミズキの手を握る者があった。
「そのまま確り剣を握っていろよ!」
「え? ハナ!」
 いつの間にそばまで来ていたのだろうか。ハナは、背後でミズキの手の上から確りと剣を握り、両足を踏ん張った。
「うおおおおおおおおおおお!」
 ハナは勇ましく叫び声をあげながら、サーペントの喉を下から上へ向かって切り裂いていく。
《グギャアアアアアアアアアアアア!》
 のどを裂かれたサーペントは激しい悲鳴を上げたかと思うと、そのまま砂漠へ倒れ、やがて動かなくなった。
「うっ!」
 それを見届けたハナは、苦痛のうめき声を上げその場にへたり込む。
「ハナ!」
 ハナは顔を上げ、逆に心配気に聞いた。
「大丈夫か? ミズキ?」
 泣き顔になって、ミズキは、サーペントのほうへ振り返る……動かない。もう、攻撃を仕掛けてくることも無い。まだ生々しい肉体。砂漠につくる悲しい影。
 ミズキは、ゆっくりと近づきそっと、サーペントを撫でる。
「……っ!」
 悔しさがこみ上げ、涙が落ちる。
「どうしてなんだろう……?」
 どうして?
「どうして、僕は、サーペントと心が通じ合えるのだと思っているんだろう?」
 それは、こうなった今でも変わらない。ミズキは、また、サーペントをゆっくりと撫でる。
「そうだ、知っているもの……君はお父さんが殺されたから怒ったんだもんね……。感情が無いなんて、そんなこと無いんだ……」
 だからといって、人とサーペントが通じ合えるという理由にはならないのかもしれない。でも……
「くっ……!」
 大粒の涙は、視界をさえぎり、あるのは、手に伝わるサーペントの冷たい感触だけ。
 悔し涙をぬぐおうともせず、ただ吼えることもできなくなったサーペントを撫でつづけるミズキを、切なげに見つめていたハナは、よろつきながら、ミズキのそばまで行き、座り込み、同じ呼吸で、サーペントを優しく撫でた。

 広い砂の土地に猛る、意地の悪い風に叩きつけられながら、二人は語らず、黄昏までサーペントを撫で続けた……

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【真実】

(結局。僕はサーペントと戦った……)
 戦う以外の方法を探す! なんて言っていたのに……泣いたって仕方ない。
 それを探すのは、殺してしまったサーペントに許してもらうためにじゃない。
 僕たちは何も知らない。知らなきゃいけないことを、知らない。
 だから、明日は……

 冴え返る月は、弱気な闇を怖がらせないように、優しく、淡く光る。
 ミズキは、疲れも悩みも包み込んでくれる夜具にくるまれ、ぼやけた夢の世界へと落ちていく。

 あの後、すっかり辺りが暗くなってからロフェイス前ノ町についた二人は、宿を探し、ほとんど会話もなく夕餉を取り、ベッドにもぐりこんだ。
 今、夜は去り、グライヤには明るい太陽の光が降り注いでいる。
 身支度を済ませ、朝食も取り終えたミズキとハナは早速、ロフェイスの大図書館へと向かう。
 朝も早くから、なみなみと水の注がれた木の桶を、我が家へと運ぶ顔達。若い男や、お手伝いをしている幼い子供。年老いた女もいる。
 やがて、二人の前に大きな壁と黒い鉄門が現れる。前に、門番が二人。
 右の広場は、大きな水場。ここから人々は生活用水を運んでいっている。命の水は、壁の向こうから流れてきているようだ。
「この先はロフェイスです。御用ですか?」
 門番の一人が、ミズキとハナに問う。
「ええ」
 ハナが頷くと、門番は二人に歩み寄り言う。
「では、ボディーチェックをさせてもらいます……と、この剣は、預からせてもらいますがかまいませんか?」
 門番はミズキが大事そうに抱きかかえている剣を指差す。
「あ……はい」
 ミズキは、素直に剣を差し出した。
「王城よりチェックが厳重だな……」
 ハナがつぶやく。
「さあどうぞ」
 門番は笑顔でそう言って、ようやく二人の前にその門を開く。

 高まる期待を抑えつつ門をくぐった二人を、ロフェイスの清々しいミドリの風が優しく迎えた。
「うわあ……」
 ミズキは思わず声を漏らす。
「これは……」
 感動のあまりか、ハナの言葉が続かない。

 喜びを湛えたミドリの木々たちは風に揺られ歌い、応えるように小鳥はさえずり、すべてを潤し流れる清水に神聖で控えめに輝く泉。
 怒りも緊張も、悩みも悲しみも、ここを訪れた者から、なんでもない顔して奪っていく。
「サンシ村に似ているよ……」
 穏やかに、ミズキは言った。
「そうか……ミズキの故郷……一度行ってみたいな……」
 瞳を閉じ自然と微笑むハナ。
 ずっとこうしていたいとそう思わせる空間。
 あまりの心地よさに目的を忘れていた二人は、ふと、同じタイミングで思い出す。
「あっ……」
 同時に声を出した二人は、思わず顔を見合わせ、噴出した。

 なんでもないことで笑う二人は、赤いレンガの長くて幅広のアプローチを軽やかに進む。門をくぐったときから、遠くに見えていた左右に広がる白い壁が、どうやら図書館のようだ。
 近づくと圧倒的な広さにため息が出る。左右どちらを見ても建物の終わりは見えず、消失点が見えのだから。
「ふあ〜すっご〜い」
 思わずもらしたミズキの声に反応する影。図書館の赤茶色の扉の前のベンチに横になる一人の若い女性。
「んん? ああ、寝ていたのか私……」
 胸におかれたぶ厚い本を、ぱたん、と気持ちのいい音を立て閉じ、上体を起こし伸びをした女性は、眼鏡をかけ大人しそうな顔、色白で、こげ茶色の長い髪は顔の左右に一つずつ三つ編み。臙脂のエプロンのついた白いワンピースは、ふんわりと長いスカートで、胸元には薔薇色のリボンがゆれている。足元はスカートに隠れるほどの長さのこげ茶の編み上げブーツ。
 女性は、外見から受ける印象とは正反対の、いたずらな笑顔を見せる。
「よ〜こそ。ロフェイスへ」

「少し来るのが遅かったね王子様」
 女性は、そう言って、王家の証の金のバッチをハナに返す。
 めまいを覚えるほどの本棚の数にあきれるほど多くの書物が、隙間無く並べられている館内。一生かかっても読みきれそうに無い。
 女性は、手で、二人に座るように合図する。二人が着席したのを見届けてから、女性も木製の長テーブルを挟んでミズキの前に座る。
「カンナさんとおっしゃられましたか? 『来るのが遅かった』というのはどういうことです?」
 ハナが問う。カンナは、少し目を細めて言った。
「昨日、霊送りの儀を行なった」
「え?」
 ミズキは一瞬理解できなかったが、ハナは伏せ目気味になり、ゆっくりとした口調で、
「お亡くなりになられたのですね……」
「ああ……ほんの二日前のことだ……」
 遠い目のカンナ。ハナは恭しく哀悼の意を表する。
「そうですか……残念です。衷心からお悔やみ申し上げます」
「し……死んじゃったの? 物知りのおじいさん……」
 不安げな、悲しげな顔をするミズキに、カンナは笑いかけた。
「心配するな……といっても無理かな? その爺さんに何か聞きたいことがあったからここに来たわけだもんね……ん〜王子の聞きたいことはやっぱり、今グライヤで起こっていること……そして、君は……君は、もしかして、サーペントスレイヤーか?」
 ずばり、当てられミズキは口を、ぽかん、と開けて驚く。
「な……何で分かったんですか?」
 カンナはニヤリとした。
「同じ匂いがしたからさ」
「え?」
 カンナは、きょとんとするミズキを見て微笑み、高い天井を見上げる。空に浮かぶ別世界。それは古い天井画。カンナは夢を見ているように、ぽつり、と言う。
「いつから、そう呼ばれるようになったのか……サーペントスレイヤー」
 しばらく、宙を見上げていたカンナは、ゆっくりと顔を下ろし二人をまっすぐに見て、
「……って、死んだ爺さんがよくつぶやいていたな」
「どういう意味なのか、ご存知ですか?」
 ハナの問いにカンナは嬉しそうに頷いた。
「王子が賢い子で嬉しいよ……そう、知っている。私は彼からたくさんのことを学んだからね……」
 カンナは、音も立てずゆっくりと立ち上がる。
「ここには、たくさん本があるだろう? ここには君たちが知らないグライヤの歴史がたくさん詰まっているのだ」
 そう言った後、カンナは左の袖をまくる。浮かぶ二重の輪の痣にミズキは、はっとした。
「それ、サーペントスレイヤーの!」
 ミズキの腕にもある、サーペントスレイヤーの証。カンナは、意味ありげに微笑む。
「今は亡き物知り爺は、名をハクオウと言って、彼はその昔、私がまだ幼い頃、自分の後継者を探すた旅に出た……」
 カンナは館内をぐるりと見回す。
「ここにいいる他の者達は、知識の後継者であってハクオウのもうひとつの顔の後継者ではなかったからだ……ハクオウは探していた、自分と同じ二重の輪の痣を持ち、また、自分が思うほかの条件にも当てはまる若者を……」
 カンナは、歩き出す。ハナとミズキは慌てて椅子から立ち上がり、後に続いた。少し振り返り、それを確認したカンナは言った。
「そして、ここに連れてこられたのがこの私だ。それは、まだ、ジャパオの王がサーペントの王に取り憑かれるまえのことだ……」
「サーペントの王……父に取り憑いているのはサーペントの王なのですか?」
 落ち着いた口調で、ハナはカンナの背中に問いかけた。
「当然だろ。他のサーペントが国王に取り憑く勝手をサーペントの王が許すはずもない」
 カンナは本棚から、一冊の本を取り出し、適当なページを開けハナの前に突き出した。
「読めるか?」
 ハナは本を手に取り、目を通す。
「読める……けど、解らない……無意味な言葉の羅列……」
 その本は、普段グライヤの人々が使っている文字で書かれているのだが、意味を成さない言葉がつらつらと……まるで御伽噺の呪文のような言葉が書かれている。
 カンナはミズキを見た。
「ミズキは?」
 ミズキも、ハナが手にしている本に目をやるが……頭を振る。
「あっ」
 その時ハナが何かに気づき、文字を指差す。
「ここ、グライヤって書いてある」
 カンナは頷いた。
「ふふ。これはな、サーペントの言葉で書かれてあるのさ、『グライヤ』も、サーペントの言葉だ」
「え?」
 ミズキとハナは同時に声を出した。
「サーペントが言語を操る?」
 問いを発したのはハナ。カンナはハナから本を取り上げて自ら目を通す。
「そう。サーペントは言葉を話す……でも、人々にはその声は聞こえない……」
 ぱたん。と、カンナは本を閉じ、元の場所に戻す。
「王子なら知っているだろう? グライヤがサーペントの王から人間の王へとその支配権が譲り渡されたという話を……」
 ハナは頷く。ミズキも頷いた。
「僕も学校で習いました……」
 カンナは、ニッと、笑った。
「では、この話は知っている? その時、同時にサーペントの王は、一部の人間に特別な力を与えた……それは、対話の力」
「対話の力?」
 聞き覚えの無い言葉にハナは首をひねる。ミズキも首をかしげた。
「き・み・も」
 言葉に合わせてカンナは、ミズキの額をつつく。そして、言う。
「対話の力があるのにな」
「え?」

 『対話師』と言うそうだ。
 ハナは、夜の図書館で、王家の歴史について書かれたぶ厚い書物を広げながら、カンナの言葉を思い返していた。
 カンナは言った。対話師は、いつ、どこで、どういった災害が起こるのかサーペントから聞くことが出来たのだと……
 災害は、大地を肥やすために必要でもあった。
 サーペントは自らそれを起こす力を有していたのだ。そして、森を開くときも、漁をするときも、田畑を新たに作るときも家を建てるときも、対話者はサーペントに聞くのだ。どこならいいのか、それはどれくらいの規模ならよいのか。それは、人々の繁栄と自然の調和のために……

 対話師の腕には二重の輪の痣がある。
 外側の輪は、サーペントの輪。
 内側の輪は、人々の輪。
 そしてそれは、一つとなり、グライヤを表す。

 二つの輪はグライヤそのもの、グライヤの中のサーペントの和、人々の和。
 対話師とサーペントの間には揺ぎ無い信頼関係があった。その象徴として与えられた対話師のもう一つの力。サーペントキラーの力。勝手を働いたり秩序を乱したりしたサーペントを成敗する力。

 いつしか時は流れ。二つの和が心通わす時期は過ぎた。
 都合が悪くなったのだ。文明が発達し、同時に欲が増していく。もっと、もっと……それを叶えるには、サーペントの助言はむしろ邪魔だった。驕ったのだ……サーペントに頼らず、繁栄していくことができるのだと……だが、それは繁栄ではない。無秩序の増殖。調和の崩壊。文明の発達があったのに、心の発達の無かった人々は本来の豊かさとは無関係の物にそれを見出し、本当の楽しみを捨て、楽を手に入れる。
 こうなると、対話師は消えていく。存在さえも忘れられていく……サーペントの声が聞こえなくなった人々の目には、サーペントは人類の脅威、文明の破壊者にしか映らなかった……本来の役目を果たさなくなった対話師に残されたのはもう一つの力。害獣を退治する英雄としての力。彼らに与えられたのは、サーペントスレイヤーという名だった。

「忘れ去られた歴史……」
 ハナはつぶやいた。今を生きる人々が知っているのは、文明の発達と人類の歴史であって、「グライヤ」の歴史ではないのだ。
 ハナは金のバッチを取り出す。王家の証の金のバッチは、グライヤの歴史を確りと伝えていた。絡まる二匹のサーペントがモチーフのエンブレムは、今も、この世界はサーペントの力で守られているのだと、そう言っている。
「何も知らなかった……」
 知ると、やらねばならないことも見えてくる。ジャパオの王子として……
 ふと、顔を上げると、カンナが前に座っている。
「勤勉だねぇ。王子様……」
 ランプの薄明かりの中、カンナは微笑んだ。
「……いつからそこに? 気づきませんでしたよ」
 微笑み返したはずだったが、そうではなかったようだ。カンナは、ふふ。と笑った。
「きりり、と、王子の顔だ」
 なるほど、名にし負う博識の翁の後継者、今まで会った大人たちとは別格のようだ。なぜか手玉に取られているような気がして、バツが悪くなったハナは、少し頬を赤らめたことを、悟られまいと、あわてて話題を振る。
「あの。グライヤと言うのは、サーペントの言葉なのでしたね。何か意味があるのでしょうか?」
 カンナは、口元だけで笑みを作りながら、軽く頷く。
「そう……グライヤは『緑の大陸』という意味だ」
「緑の大陸……」
 ハナは繰り返し、ふと、ある詩を思い出す。緑の大陸……グライヤの詩。
「ただ 駆けろよ グライヤの少年よ」
「おっ。スノーテの詩だな」
 カンナが言うとおり、天才詩人スノーテの詩だ。スノーテの何が天才なのか、どこがいいのか、ハナにはずっと分からなかった。が、ハナは、はじめて思った。
「いい詩ですね……」
 緑豊かな大陸を駆ける少年たち……グライヤは美しい大陸だったのだ……

 淡い月光に照らされた、緑と水の庭園。ロフェイスの庭。ミズキは一人佇んでいた。
 ぐっと、左腕を握る。サーペントスレイヤーの……いや、「対話師」である証の痣の浮かんだ左の腕。
(僕には、彼らと対話する力があるんだ……)
 だが、どうやったらいいのだろうか? ミズキは、懸命に語りかけた。サーペントに。だが、届かなかった。
 対話の方法をカンナも知らないようだった。訓練が必要なのだろうか? それとも知識?
 そうじゃない。そうじゃない、きっと……
「行かなきゃ……もう一度、王様に……サーペントの王様に会いに行かなきゃ」

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【交差】

 ロフェイスを発って三日。王都はもうすぐそこだ。ミズキとハナは、木造の喫茶店で昼食を取っていた。トマトパスタを食べながら、たわいも無い会話。
「緑の大陸?」
 ハナは頷く。
「そう。このグライヤには、俺たちが知らないだけで、サーペントの言葉がたくさん残されていたんだ……ロフェイスは『大いなる叡智』という意味で、この国の名前ジャパオは『サーペントの友達』という意味なんだとさ」
 ミズキの目が輝いた。
「サーペントの友達! そうか、もともと、僕たちとサーペントは友達だったんだね」
 優しげな瞳でハナは微笑んだ。
「そうだ。ミズキが感じていたように、我々人類とサーペントは同じ大陸に住むもの同士仲良くできるんだよ」
 ミズキの満面の笑み。その、嬉しそうな笑顔をみたハナも、頬を緩ませた。
 ミズキは、幸せそうにつぶやく。
「そうか……ジャパオ……ジャパオ……なんて素敵な名前なんだろう……」
 だが、彼らは、知っただけ……まだ何も変わっていない……終わっていない。
 サーペントの王は、驕った人類を滅ぼそうとしている。怒れるサーペントの王はきっと、二人を受け入れてはくれないだろう……それでも……

「おい!」  突然、一人の男が二人のいる喫茶店に勢いよく入店した。そして、言う。
「また、サーペントが出た! 場所は『リトン』だ!」
「!」
 ガシャン!
「ハッ……ハナ! 紅茶こぼれたよ……」
 熱い、紅い液体の入ったティーカップはハナの手から滑り落ち、木造のテーブルに香り高いしみを作っていく。ハナの目はうつろだ。
「ハ……ハナ?」
「くそっ! またか!」
 客の男が言った。店内は騒がしくなる。客たちは男に詰めより詳細を聞きたがる。
「被害状況は?」
「わからねぇ。でも、サーペントスレイヤーが駆けつけたときにはもう、サーペントは去った後だったって」
「逃げられたのか……」
「ああ。でも、王国軍が救助活動を行なっている。生き残ったやつらも多かったのかもしれない」
 ハナは、ゆっくりと立ち上がる。
「……出よう……ミズキ……」
「え? う……うん」
 まだ、昼食の途中だが、ハナの尋常ではない雰囲気に気圧され、剣を握り締め黙って一緒に店を出た。

 店を出たハナは、商店が立ち並ぶ町の曇天を見上げ唇を噛む。
 そんなハナの腕をそっと掴む手……ミズキは心配を隠さずハナを見つめる。そんなミズキを見て、ハナは、らしからぬ弱々しい声で言った。
「リトンは、俺を育ててくれた町なんだ……」
「え……」
 ハナは、小さく震えている。怒りのためだろうか?
「ハ……ハナ……」
 ミズキはひどく不安になる。ハナは、おそらくサーペントに怒りを覚えている。
(ハナは、もう、僕の味方をしてくれないかもしれない……)
 しばらくして、ハナは口を開いた。
「一人にしてくれないか?」
 一人にすることがためらわれるほども弱々しい声。ハナは、また哀訴する。
「一人に……してほしい……」
 ミズキは切なくて、唇を噛んだ。
(僕が、そばにいることがきっと、辛いんだ……)
 ミズキは、ゆっくり頷く。
「わかった……あのね……僕は、一人で戦えるから……」
 これが精一杯の言葉。もう何も浮かばない。そして、ミズキは、ハナを残しその場を去る。

。 残されたハナは、虚ろに歩き出す。そして、突然座り込み、両肩を抱え叫びだす。
「リズム! リズム! リズム!」
 ハナの手の力は緩み、涙がかすかに滲む。
「……無事で、いてくれよ……」

 どれくらい、そうしていたのだろうか?
 ハナは、路地裏に座り込み、茫然としていた。
 そして、ふと、自嘲の笑みを浮かべる。
「……何をやっているのだろうな……俺は……」
 こんなところで座り込んでいたって何も変わりはしないのに。
「俺は、何をしようとしていたのだろうか?」
 何を思って、家出した?
「そうだ。グライヤを……」
 グライヤを?
「何故、グライヤのことを考えなければならない? 大事な仲間が、惨劇に遭っているのに。仲間のことよりグライヤ? 何故なんだ? 俺がこの大陸で唯一の国の王子だから?」
 グライヤの平和はジャパオ国民の平和。個人の幸せより、国の幸せを考えよ。
 雨のにおいのする、冷たい空気が当たりに漂い始めた。
 ぐっ、と、下唇を強く噛んだハナの真っ赤な血が、滴り落ちる。
 そして、悔しそうに、力なくつぶやく。
「くそ……王子になんて……生まれてこなきゃよかった……」

「ここにも、来るの? サーペント?」

 不意に聞こえた幼い声に、ハナは顔を上げた。
 大通りを歩く母と娘。母は足を止め、膝立ちになり娘を抱きしめた。
「来ないわよ。ママがそんなこと許さないもの……パパもママも守ってあげるから、心配なんてしなくていいの」
 母はかすかに震えている。いつ襲ってくるか分からないサーペントに恐怖しながらも、懸命に愛しいわが子を守ろうとしている。
「うん! 心配なんてしないわ」
 娘は安堵の笑みをもらす。母はそんな娘の小さな手を引き、また歩き出す。
 親子がいなくなった場所を、ハナは見つめたまま……
「来ないわよ。ママがそんなの許さないもの……」
 つぶやくように繰り返す。愛情に満ちた母の言葉。
「ママが、そんなの許さないもの……」
 ぽつぽつと、大粒の冷たい涙が憂鬱な空から零れ落ちてくる。
「ふっ……あははははは……」
 なぜか笑い出し、ハナはゆっくりと立ち上がった。
「母さんが生きていたら、俺は、母さんをひどくがっかりさせていただろうな……王子に生まれてこなければよかった……だなんて」
 今は亡き母は、幼い一人息子にどんな思いを託し世を去ったのだろうか?
 ガン!
 強かに、ハナは壁を叩く。
「情けなすぎる……これが王子だなんて知ったら、母だけじゃない! 国民だってさぞかし不安に思うだろうよ!」
 きっと、国民は懸命に手を伸ばしている。助けてくれ! と、叫んでいる。頼るべき国王が蛇王と化し、王子はこんなにも頼りなくとも、何も知らず信じている。
 ハナは皮肉に笑う。
「ふっ……俺がやらなきゃって、意気揚々出てきたくせに、ホントは何も分かっちゃいない……ホントは何も考えちゃいない! ミズキのほうがよっぽど……」
 そこで、ハナはようやくミズキのことを思い出す。
「あんな、まだ、たった十歳の子に『一人で戦えるから』なんてセリフ言わせて……何やってんだよ……」
 パアーン! 思い切りよく、ハナは自分の両頬をたたいた。
「バカか俺は! 俺がこんなとこでうじうじしていて、誰が国民を守るんだよ! いないだろ! 俺がやらないと! 俺が!」
 ハナは大きく息を吸い、泣きじゃくり晴れぬ空に向かって叫んだ。
「俺が、父と母の子! ジャパオの王子なのだから!」
 それは、他の誰でもないのだ。

「段のある町並みが、被害を少なくしたんだな……」
 サーペントが去った後のリトンに立ち、エンは言った。
 リトンの町の上のほうは、ほとんど被害が無いが、下のほうの家々はほぼ全壊といってもいい。
 エンとメイビ、カイは、偶然リトンの近くにいたが、駆けつけたときにはもう、サーペントの姿は無かった。町には、王都からの兵はまだ来ていないが、近くの町の兵達が救助活動を始めている。
「ハナ様ーー! ご無事ならば返事をなさってくださーーい! ハナ様ーー!」
 どこかの金持ちの息子の名前なのだろうか? 数人の兵士が懸命に「ハナ」と言う名を呼んでいる。
 エンは、矢庭に瓦礫を掻きだし始めた。
「何やっているの?」
 メイビが淡々とした口調でエンに問う。エンは顔も上げず、
「生き埋めになってる奴が居るかもしれないだろ! 手遅れにならないうちに探し出してやらねぇと……あっ!」
 がむしゃらに瓦礫と戦うエンの目に細く白い腕が映る。
「人がいる! カイ! メイビ! 手伝ってくれ!」
 カイとメイビは、頷き、瓦礫を慎重にどけてゆく。やがて、瓦礫の下から、傷ついた少女が姿を現す。
「おい! 聞こえるか」
 エンの呼びかけに少女はかすかに反応した。
「……ん……」
 少女の耳の、小さな赤いルビーが揺れた。
「誰か来てくれ! 生存者だ!」
 リュスイが、よく通る声で人を呼ぶと、数人の兵士が駆けつけた。兵士は、少女を担架に乗せる。
「お父さん……お父さんはどこ?」
 弱々しく手を伸ばし、虚ろに父を探す少女は、救護テントへと運ばれていく。
 それを見送り、エンは、思い切り地を蹴った。
「くそっ! 最近サーペントの出没の間隔が狭まってきていないか?」
 カイもメイビも答えない。
「くそっ! 俺はもう我慢できねぇ! こんなのもう見たくない! 俺は、蛇王と戦うぜ!」
 熱くなるエンに、やはりメイビは淡々とした口調で問う。
「本気で言っているの?」
 エンは、グッと、表情を引き締めた。
「リュスイさんがいなくなったから自暴自棄になってるわけじゃないぜ……あの人は、蛇王を倒すために、サーペントスレイヤーを探して、育ててたんだ。だから、いつも慎重で……でも、もう、リュスイさんはいない。だから、俺たちは自分で考えて行動しなけりゃならなくなったんだ」
 メイビは伏し目になる。
「勝てるわけ無いのに?」
「別にお前たちまで巻き込むつもりなんかねぇよ。でも、もう時間がない気がするんだ。それに、俺が蛇王と戦ったって知ったらあいつだって……」
「あいつ? ミズキのこと?」
 メイビがその名を出すと、エンは、眉をしかめたが、否定はしない。
「俺は、これ以上強くなれねぇよ。でも、あいつはリュスイさんの息子だ……」
 メイビは、うす曇の空を眺める。
「……私も一緒に戦うわ……」
「ミズキで思い出したのだが……」
 カイが、口を開いた。
「王都からミズキを連れ出したとき、国王と何を話していたのか聞いたのだ。国王はミズキにこう言ったそうだ『君には、我々の邪魔が出来ぬように、人類の滅亡の日まで、地下独房で過ごしてもらわねばならぬようだ』……と」
 エンは首をかしげる。
「それがどうしたんだ?」
「いや……もしかしたら、今まで捕らえたサーペントスレイヤーも、蛇王は地下独房へ閉じ込めているのかもしれないと思ってな……」
「私たちの仲間は、殺されてはいないの?」
 相変わらずの感情のなさそうな声で問うメイビ。
 カイは、頷きはしない。
「確証は無い。だが、蛇王のセリフ『人類の滅亡の日まで〜』が、気にかかるのだ。蛇王は、せめてもの慈悲のつもりか、捕らえたサーペントを、その日まで生かしておいてやろうと思っているのではないのか?」
「つーか、飼い殺しだろ。で? もしそうだとして何だよ?」
 なかなか理解力の低いエンに、カイは分かりやすく説明する。
「つまり、彼らを救助すれば援軍になる。城内のことはよく分からないから、そううまくいくとは限らないが……」
「雲を掴む話だな」
 エンの言葉に、カイは表情を変えずに言う。
「否定はしない」
 突然、肌寒い……強い風が吹き荒れる。
 メイビは瞳を閉じ、珍しく感情のこもった口調で言った。
「……でも……一縷の望みに賭けるのね……」

 リトンがサーペントに被害にあった。ハナ様が今、おられる町であるから、ビル内は騒がしい。
「ロウゲツ様!」
 激しいノック音に、呼ばれたロウゲツは、重い腰を上げ、書斎の扉を開ける。見れば、リトンへと飛んでいった兵士だ。随分と帰りが早い。兵士は、ロウゲツに詰め寄ってくる。
「どういうことです!」
「どういうこととは、どういうことだ?」
 ロウゲツは顔色一つ変えず聞き返す。兵士はリトンでのことを、語る。
「リトンの被害はそれほど大きくはありませんでした。だが、ハナ様のお姿が見つからない。我々は必死にハナ様の名を呼びました。と、町民が『ハナ様が来てらっしゃるのか?』と聞く。不審に思って、他の町民たちに話を聞いていくと、ハナ様は何日も前に王都へ向かわれたことが判明したのです」
「王子が王都へ?」
 眉間にしわを寄せたロウゲツは、兵士をたじろがせるほど、凄みがある。
 ロウゲツは考える。家出したと言ってはいたが、まさか王都に向かっていたとは……。
 だが、昨日訪ねてきた王都からの使者は、ハナ様について何も言及しなかった。もう、ハナ様は城にはいないのだろうか? それより王子は、何をしに行ったのか? 父が恋しくなったのだろうか? 何かをしでかそうとしているのだろうか?
 いや、あの王子にいったい何が出来るであろうか? 
 だが、しかし……
「……気にはなるな……」

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